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鴻巣びっくりひな祭り その2 (H26.2.22)


鴻巣びっくりひな祭りメイン会場の雛飾り


今回のJR東日本の駅からハイキングの「鴻巣びっくりひな祭りと中山道歴史散策」は、2月22日のみ開催のイベントで予約が必要でした。
風来坊は1ヶ月ほど前に予約しましたが、2週間前には定員1000名に達したため、受付終了となりました。
鴻巣びっくりひな祭りを見学するコースということで、人気の高いコースのようです。

駅からハイキングのイベントに関しても、JR鴻巣駅の受付、ウォーキングコースの案内板の設置、散策ポイントでの観光ガイドなどは、「鴻巣びっくりひな祭り実行委員会」のボランティアの方々によって行われていたようです。

今回のコースは、案内板が要所に設置されていましたし、多くの方が参加されていましたので、地図を殆ど見ることなく歩くことができました。
したがって、レポートではコースの細部説明は省略します。



エルミパーク

JR鴻巣駅で受付を終了して案内板にしたがって、「エルミこうのすショッピングモール」の2階を通り抜け、階段を下りて左方向に100mほど進んだところが「エミルパーク」です。

ここに「旧町名復活の碑」がありますが、周囲は雪に覆われていました。

明治時代の旧町名が復活した記念碑のようです。


エルミパークから約200mで「鴻神社」です。

「鴻神社」は明治6年(1873年)にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれていました。

明治40年4月8日に鴻三社から社号を改め「鴻神社」となり、現在に至っています。

鴻神社では、合祀以前の三社で祀られていた神を祭神としています。


鴻神社



鴻神社本殿

鴻神社には、いつ頃からか、次のような伝説が伝えられています。

その昔、この地に「木の神」と言われる、人に害をなす大樹があり、人々は「木の神」の難を逃れるため、お供え物をしていました。

ある日、こうのとりがやってきて、この木の枝に巣をつくり、卵を産み育てはじめました。

すると大蛇が現れてその卵を飲み込もうとしたので、こうのとりは大蛇と戦い、退散させました。

それ以後、「木の神」が人に害をなすことがなくなったので、人々は木のそばに社を建て、鴻の宮と呼び、いつしか、この地を鴻巣と呼ぶようになったと云い伝えられています。


「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心)こくふのす」が「こうのす」となり、後に「コウノトリ」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと推定されています。

国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名「国府台(こうのだい)、国府津(こうづ)など」からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないかと考えられています。

「鴻神社」の社殿の両脇に樹齢500年以上のイチョウの雄木、雌木があります。
「夫婦銀杏」で子授け・安産・健康長寿・夫婦円満の御神木として親しまれています。
鴻神社の境内も雪に覆われており、雛人形の展示は行われていませんでした。



法要寺本殿


「鴻巣神社」の裏手に出て、右方向に案内板にしたがって400mほど進んだ左手が「法要寺」です。

「法要寺は長禄元年」(1457年)の開基で、北本市にある深井寿命院の末寺で、寺号は慈雲山医王院法要寺です。

法要寺は「梅に鉢」の寺紋で、加賀100万石の前田家と同じ紋を使用しています。

これは慶安の頃(1648〜1652年)、加賀前田侯が参勤交代における鴻巣の宿所として法要寺を利用することになった際に、寺紋としての使用を許されたものです。


法要寺



法要寺六地蔵

法要寺には鴻巣市の指定文化財となっている庚申塔をはじめ、市神の狛犬、深井景周の碑、関弥太郎の墓など貴重な文化財があります。

関屋太郎は彰義隊士で、徳川直参の旗本でした。

上野で敗戦後、榎本武揚や土方歳三らと合流し、五稜郭で政府軍と戦います。
その後、明治9年頃から鴻巣に居住し、長唄と師匠として一生を送ったと伝えられています。墓は門人と世話人によって建てられました。

法要寺の文化財については、残念ながら撮影できていません。


法要寺から案内板にしたがって550mほど進むと、道路脇に「鴻巣宿本陣跡」の記念碑が建っています。旧中山道沿いです。

元々は、本宿村(現在の北本市)にあった宿駅を慶長7年(1602年)に現在地へ移して鴻巣宿と改称しました。

旅籠は58軒あったといわれており比較的大きな宿場でした。


中山道鴻巣宿



鴻巣本陣跡

「鴻巣宿本陣跡」から案内板にしたがって550mほど進むと「勝願寺」です。

勝願寺の寺号は、鎌倉時代に良忠という僧が鴻巣市登戸に堂宇を建立したことに始まります。

現在地に勝願寺が建立されたのは、時代が下り天正年間(1573〜92年)の頃で、清厳上人がこの地に再興されました。

2世住職となった円誉不残上人は学僧の誉れ高く、慶長11年(1606年)に後陽成天皇から、僧としては最高位の紫衣を与えられました。

このことから名声も高まり、壇林として隆盛し、寛文年間(1661〜1673年)には関東十八壇林の一つとして固定されました。



勝願寺


2世住職となった円誉不残上人は学僧の誉れ高く、慶長11年(1606年)に後陽成天皇から、僧としては最高位の紫衣を与えられました。

このことから名声も高まり、壇林として隆盛し、寛文年間(1661〜1673年)には関東十八壇林の一つとして固定されました。


勝願寺



勝願寺

徳川家康は、文禄2年(1593年)、慶長2年(1597年)、同6年(1601年)、同9年(1604年)と、何度も鴻巣へ訪れ、鷹狩を行っています。

文禄2年(1593年)に初めて鴻巣で鷹狩を行った際に勝願寺を訪れ、2世住職円誉不残上人に感銘を受け帰依しました。

そして様々な宝物を寄進されたと伝えられていますが、残念ながら、これらの宝物は度重なる災厄によって、殆ど残されていません。



勝願寺


徳川家康の庇護を受け、勝願寺では将軍家の家紋である三つ葉葵を使用することを許されており、現在でも軒丸瓦や仁王門に散見することができます。

また徳川家康は、腹心である牧野家、伊奈家などに檀那契約を結ばせることで、勝願寺の地位を安泰にします。

このため勝願寺には、両家の墓が残されています。


勝願寺


本堂の左手に「芭蕉忌千句塚」が建てられています。

「けふはかり 人も年よれ 初時雨」

隣りの石碑は千句塚を建立した横田柳几の句碑で

「夕暮れを こらえこらえて 初時雨 柳几」

その奥に見える「墓石群」は、一番右が本田忠勝の娘で家康の養女となり、真田信之の妻となった「真田小松姫の墓石」です。
中の2基は 「真田信重(信之の三男)とその室の墓石」、 左は豊臣秀吉の家臣で、その後家康に仕えた「仙石秀久の墓石」です。



ひなの里



ひなの里の雛飾り

勝願寺から約600mで鴻巣市産業観光館「ひなの里」です。

鴻巣市産業観光館「ひなの里」は、鴻巣の伝統産業である人形や国指定無形民俗文化財の赤物製造工程の展示、全国に知られた花卉をはじめとする産業の紹介、また市内のさまざまな観光情報の発信基地として、人形産業の中心地である、鴻巣人形町に平成24年4月に誕生した新しい施設です。


「ひなの里」は、明治期の蔵を中心とする歴史的建造物、鴻巣市観光協会による特産品の販売スペース、産業・観光の施設案内スペース、展示会や講座にも利用できる会議室、そしてさまざまな鴻巣の姿をデザインしたモザイクアートで彩られた多目的広場で構成されています。

「ひなの里」は、産業・観光の振興を通じて、鴻巣中心市街地の活性化に繋げるための、過去から現在、そして未来へ向かう鴻巣を象徴する施設です。


ひなの里の雛飾り



ひなの里の雛飾り 中庭には雪が残っています



ひなの里の雛飾り



ひなの里の雛飾り

ひなの里特別展として、「大びな&川幅飾りと鴻巣歴史びな」が開催されており、屋外に約1400体、館内に約1500体のおひな様が飾られていました。

その中には、「等身大びな人形」もありました。

屋外には雪が残っており、横一面に雛人形が並ぶ川幅飾りはやや制約されていたかもしれませんが、「ひなの里」はひな祭り一色でした。



ひなの里の雛飾り


鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅が2.537m日本一であることが、国土交通省の調査により平成20年2月に分かりました。

川幅飾りはこれに由来しているようです。


ひなの里の雛飾り



ひなの里の雛飾り

380年の歴史を誇る鴻巣人形

日本には優雅な伝統行事が数多くありますが、中でも子どもの健やかな成長を願って飾る『節句人形』は、日本の伝統美を伝える最も優れたものです。

節句人形が現在のような豪華さを見せ始めるのは江戸の中頃ですが、鴻巣はその頃から「鴻巣びな」として有名で「関東三大雛市」のひとつに数えられていました。



ひなの里の雛飾り



ひなの里の雛飾り


特にきものの着付けでは関東一という評判で、江戸の職人たちは競って鴻巣に修行にやってきました。それが原因で江戸職人との仲間の間に「職人の引き抜き」などのトラブルが続き、南町奉行所のお白州で争われたことも何度もあったとのことです。


ひなの里の雛飾り



ひなの里の雛飾り

明治になっても「鴻巣びな」の製作は盛んで「埼玉県内では、越谷6軒、大沢3軒、岩槻3軒に比べて、鴻巣の人形業者30軒、職人300人」という記録がその活況ぶりを伝えています。



ひなの里の雛飾り


江戸時代より連綿と続く「鴻巣びな」の伝統の灯は、平成の現在もしっかりと守り続けられており、人形町周辺に10件の人形店が軒を並べています。

今回は「平田屋人形店」「マル武人形店」を訪ねました。


ひなの里の雛飾り



ひなの里の雛飾り


ひなの里の雛飾り



平田屋人形店



平田屋人形店の亨保雛

「ひなの里」から中山道を200mほど進むと「平田屋人形店」です。

平田屋人形店は、鴻巣で一番大きなお店とのことで、250坪の広い店内には数多くのお雛様が飾られていました。

店内は撮影禁止ですので、その様子はお伝えできません。

お店の入り口に飾られていた亨保雛は撮影することができました。



マル武人形店



マル武人形店


「平田屋人形店」から中山道を鴻巣駅の方向に500mほど戻り、路地を少し入ったところが「マル武人形店」です。

「マル武人形店」は昭和62年に人形部門で第一号の「埼玉県伝統工芸モデル工場」に指定されており、県内外の小・中学校を中心に多くの見学者が訪れるとのことです。

本社の2階と3階は制作工房で、着物の裂地選びから衣裳作り、着せ付け、頭差しの作業が20数名のベテランの女性スタッフの手で進められています。


マル武人形店



マル武人形店

400社を越える全国の人形専門店、百貨店に高級雛を出荷しており、鴻巣の出荷額の60%を占める一番店です。

また、平成15年にはマル武人形の「雛人形」「鎧飾り」が総理大臣官邸ロビーに飾られたとのことです。

マル武人形店は店内の撮影OKでした。



マル武人形店


マル武人形店から、案内板にしたがって1400mほど進んだところに「東浦1号公園」があり、その隣が「鴻巣市役所第2庁舎」です。

この付近一帯が「生出塚遺跡」です。

生出塚遺跡は、東日本最大規模の埴輪窯跡群です。

元荒川の沖積低地に向かって北東方向になだらかに傾斜する台地上(鴻巣市役所第2庁舎南側一帯)に遺跡は広がっています。


マル武人形店



マル武人形店

最も標高が高い地点は、海抜約19mです。

周辺は住宅地となっており、かつての景観を偲ぶことはできません。

この場所の窯跡から出土した埴輪は、円筒形、器財系(武器・武具)、家形、人形形、動物型(馬、鹿、水鳥)などがあります。

これらの埴輪は、鴻巣市文化センター(クレアこうのす)にある、歴史民族資料コーナーに収蔵されています。



鴻巣市文化センター(クレアこうのす)



歴史民俗資料コーナー


「生出塚遺跡」から約450mで「鴻巣びっくりひな祭り」のメイン会場の鴻巣市役所です。

市役所の玄関前には多くのお店が出店されており、鴻巣グルメも味わうことができるようになっています。

市役所の隣の公園の中に「鴻巣市文化センター(クレアこうのす)」があります。

1階の歴史民俗資料コーナーに、生出塚の埴輪を中心とした出土品が展示されていました。


歴史民俗資料コーナー



歴史民俗資料コーナー

クレア鴻巣から市役所の方向に戻り、幅広い道路を800mほど進むとJR鴻巣駅です。

JR鴻巣駅の手前右手が「エルミこうのすショッピングモール」で、1階が鴻巣びっくりひな祭り「エルミ会場」です。

「エルミ会場」のひな祭りを見学した後、鴻巣駅の戻ると今回のコースのゴールです。



歴史民俗資料コーナー



関連のホームページ


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        風来坊


歴史民俗資料コーナー


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