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幸手権現堂桜堤の桜 (H26.4.8)


幸手権現堂桜堤の桜と菜の花



幸手権現堂桜堤の桜と菜の花



幸手権現堂桜堤の桜と菜の花

関東の桜の名所として知られる幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1Kmにわたって咲き誇り、堤の周辺の菜の花とのコントラストは見事で、桜の時期は多くの花見客で賑わいます。

また、6月には色とりどりの紫陽花、9月には真っ赤に染まる曼珠沙華(彼岸花)、1月には白い可憐な水仙が見ごろを迎え、1年を通して楽しむことができます。


今年も、第84回幸手桜まつりが、3月26日(水)〜4月10日(木)の間、開催されました。

桜まつりの期間中は、約100店舗の露店が出店し、さまざまなイベントも行われます。


幸手権現堂桜堤の桜と菜の花



幸手権現堂桜堤の桜と菜の花



幸手権現堂桜堤の桜と菜の花

県営権現堂公園は、桜の名所である幸手権現堂桜堤や隣接する権現堂調整池の水辺空間を活かし、「レクリエーションの拠点ならびに水とのふれあいの場となる公園」を目指して整備が進められています。

この公園は4つのゾーンで構成されており、そのうち多目的運動広場の1号公園と幸手権現堂桜堤の4号公園の2つのゾーンが開園されています。



幸手権現堂桜堤の桜と菜の花



幸手権現堂桜堤の桜と菜の花


大正9年(1920年)、権現堂堤3000本のソメイヨシノが植えられ、関東の桜の名所となりました。

太平洋戦争の末期に薪として伐採されましたが、昭和24年(1949年)に改めて1000本のソメイヨシノが植樹され、毎年4月には桜まつりが盛大に開催されています。


幸手権現堂桜堤の桜と菜の花



幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木

昭和63年(1988年)から堤のそばに菜の花が作付けされ、春を迎えると桜の淡いピンクと菜の花の黄色とのコントラストが見事です。

現在では、地元のボランティア団体が桜だけではなく四季折々の花を楽しみたいという思いから、紫陽花、曼珠沙華(彼岸花)、水仙を植栽し、年間を通じて花を楽しむことができる公園となっています。


権現堂桜堤は、天正4年(1576年)頃に築かれたといわれています。

しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により部分的に作られていったものが後につながり、権現堂堤になったとされています。


権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、宝永元年(1704年)に、はじめて権現堂堤が切れてから、幾度も決壊をしてきました。その被害は遠く江戸にまでおよび、大江戸八百八町の半ばは水浸しになると言われ江戸を守る堤として大切に管理されていました。


幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の破堤により濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難していましたが、それも根こそぎ流され平野村須賀間に流れ着き75名もの流死者が出てしまいました。

このため、現在でも犠牲者の供養が行われていつとのことです。


この後も、幾度にも水害に襲われ、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では80軒の民家が流される被害が出ています。



幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木


権現堂堤の中央付近に、「順礼の碑」と「供養塔」が建っています。

享和2年(1802年)は、長雨が続き、幾度修理しても大雨が降り出すと一夜のうちに切れてしまうという状況でした。

ある時、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていましたが、大被害と続く工事の疲れに、口をきく元気さえも失っていました。

その時、夕霞のかかってきた堤の上に母娘の順礼が通りかかりました。母順礼が堤の切れ口をのぞきこんで、「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。人身御供を立てなければなるまい。」と言いました。そこで、堤奉行は「誰が人身御供に立つものはいないか。」と人々を見渡しましたが、誰も顔を見合わせるだけで、進んで私がなるとういう者はありません。


順礼の碑



母娘順礼像

すると重苦しい空気を破り誰ともなく「教えたやつを立てろ。」という声があがりました。母順礼はこの声を聞くと、「私が人柱になろう。」と念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせたのです。これを見た娘順礼もあっというまにその後を追いました。すると不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来たと伝えられています。

この順礼母娘を供養するため昭和11年(1936年)に石碑が建てられ、この碑には明治時代の日本画家結城素明による母娘順礼像が刻まれています。


幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木


文政9年(1826年)には、度重なる堤の決壊に困り、堤の補強にと上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1300本が植えられましたが、なかなか根づかず何度か植えなおしが行われましたが、結局根づかなかったようです。

権現堂堤は遠い昔より、人々の憩いの場所として親しまれており、度重なる水害にもめげず、その都度修復を行い権現堂堤と共に人々は暮らしてきたのです。


幸手権現堂桜堤の桜並木



幸手権現堂桜堤の桜並木



明治天皇権現堂堤御野立所

明治9年(1876年)6月4日に、明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を視察するために駕籠を止めさせました。

このとき、堤の名を行幸堤とすることが許され、記念碑を建てるために金100円が下賜されたとのことです。


現在も記念碑が残されています。



幸手権現堂桜堤の桜


今年は、桜の開花から満開を経て花吹雪になるまでの期間が短く、4月8日に幸手権現堂桜堤を訪ねたときは、残念ながら桜は見頃を過ぎており、桜と菜の花のコラボレーションを楽しむことはできませんでした。


幸手権現堂桜堤の桜



幸手権現堂桜堤の桜


幸手権現堂桜堤の桜



幸手権現堂桜堤の桜

関連のホームページ

 幸手市観光協会

アクセス

 東武日光線幸手駅から徒歩30分。



        風来坊


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