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湯河原散策 その2 (H26.5.30)



万葉公園文学の小径



太子堂

「独歩の湯」から「文学の小径」を戻り、「狸福神社」を少し過ぎた左手の階段を上ると、「月夜広場」で、傍に「太子堂」「熊野神社」があります。

「太子堂」は昭和35年(1960年)、建築組合員一堂が聖徳太子の偉業を敬慕して建立しました。

堂は奈良法隆寺の夢殿を模したものです。


「熊野神社」の御祭神は、天照皇大神、伊弉諾神、伊弉冊神です。

熊野神社は紀伊からの勧請といわれていますが、時代は不明です。

湯の守護神、健康の守護神として別称「湯権現」と呼ばれています。

5月の第4土・日曜日には「熊野神社例大祭」が「湯かけまつり」とあわせて開催されます。


月夜広場



光風荘

「月夜広場」を反対側に抜けて、坂道を下っていくと左手に「光風荘」があります。

昭和11年(1936年)の「2.26事件」では、斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監や護衛の警察官らが犠牲になったほか、多数の者が負傷しました。

この事件において、東京以外の唯一の現場となったのが、湯河原の「光風荘」です。


老舗旅館伊藤屋の元別館「光風荘」には、前内大臣の牧野伸顕伯爵が静養のため家族、使用人とともに滞在していました。

天皇側近として国政の中枢にあり、リベラルな考え方で政・官・財界に影響力を持っていた牧野伯爵は、急進的な青年将校たちに天皇の判断を誤らせる君側の奸(天皇を取り巻く悪者)と見なされ、襲撃の対象となりました。

河野壽大尉以下8名の別働隊は、2月26日早朝、光風荘を急襲し、銃撃戦の後、光風荘に放火炎上させましたが、牧野伯爵は地元消防団員らの活躍で脱出に成功しました。


光風荘



湯河原温泉街



湯元通り

この事件で護衛の皆川巡査は死亡。河野大尉も部下の下士官とともに重傷を負ったほか、伯爵づきの看護婦や地元消防団員も銃弾や消火作業で負傷しました。

光風荘の公開日は、土・日・祝日とのことで、残念ながら見学することはできませんでした。



湯元通り入り口付近の光景


光風荘の傍の「権現橋」を渡った先の丁字路を左折し、200mほど進んだ左手にある「藤木橋」を渡ると「湯元通り」です。

メインの温泉街に平行している古い温泉街ともいえる通りで、古い温泉旅館が並んでいます。

湯元通りを200mほど進んだ「伊豆屋旅館」の前を右折すると、メインの広い通りと合流します。


湯元通り伊豆屋旅館



町立湯河原美術館付近の光景



町立湯河原美術館

合流して上流に向かって100mほど進んだ左手が「町立湯河原美術館」です。

湯河原は、万葉の時代より知られた温泉地ですので、この地を愛した画家や文学者たちが多く訪れています。

「町立湯河原美術館」は、竹内栖鳳や安井曾太郎、三宅克己など湯河原にゆかりの作品を集める美術館です。

平成10年に老舗旅館を改装して「湯河原ゆかりの美術館」として開館しました。


平成18年10月、日本画壇の第一線で活躍する平松礼二画伯の作品を展示する「平松礼二館」を新設し、収蔵品を展示する「常設館」と併せ、館名を「町立湯河原美術館」に変更してリニューアル・オープンしています。

美術館に隣接する日本庭園では、自然の山々に囲まれ、桜、新緑、紅葉など四季折々の景色を楽しむことができます。また、庭園の池では、平松画伯がモネ財団から譲られた貴重な「モネの睡蓮の株」を育成しています。


町立湯河原美術館庭園



湯河原美術館から不動滝までの光景



湯河原美術館から不動滝までの光景

「町立湯河原美術館」から上流に向かって道なりに800mほど進んだ右手が「不動滝」です。

「不動滝」は、湯河原五大滝(白雲の滝、清水の滝、五段の滝、だるまの滝、不動滝)の一つで、落差15メートルの小さな滝ですが、水量は豊かで、不動明王のような力強さが感じられます。



不動滝


滝の左側には身代わり不動、右側には出世大黒尊が祀られています。

不動滝で発見された湯河原沸石は、滝つぼのまわりの岩盤から採れた石のことで、石の中に白い結晶がまだらに入った物ですが、現在では殆ど見られず茶店に見本が置いてあります。

残念ながら見逃しました。


出世大黒尊



湯河原温泉街



湯河原温泉街



湯河原温泉街

「不動滝」からの復路は、「町立湯河原美術館」までは往路と同じ道を戻ることになります。

「町立湯河原美術館」の100mほど下流で左手の橋を渡り、ここからは往路とは異なり、湯河原温泉街のメイン道路に沿って進むことになります。

500mほど進むと右手が「万葉公園」です。



湯河原温泉街



湯河原温泉街


「万葉公園」からも往路とは異なり、湯河原温泉のメインストリートを進みます。

道路の両側に旅館や土産物店が建ち並ぶ、温泉街が暫く続きます。

温泉街を抜けて200mほど進むと左手に「昇栄堂味楽庵」があり、その前に「美人の湯」の碑と「豆相人車」があります。

「美人の湯」の碑は、美人の湯として知られる湯河原温泉を紹介している碑です。


湯河原温泉街



美人の湯


美人の湯



豆相人車

鉄道が湯河原(当時は土肥村)に交通機関として登場したのが明治29年(1896年)3月です。

明治29年にできた人車鉄道は、乗客3〜6名とこれを押す者(車丁)3名の人力で、10年間走り多くの話題を残しました。

この人車は、人車鉄道開通100年を記念して、当時の型状をそのまま復元したものです。



五所神社



五所神社


「昇栄堂味楽庵」から400mほど進んだ「宮上」の交差点から、斜め左後方に300mほど進んだ左手が「五所神社」です。

「五所神社」は、社伝によれば、現在から1300年前の天智天皇の御代に、加賀の住人二見加賀之助重行らの手によってこの地方が開拓されたときに、土肥郷(吉浜、鍛冶屋、門川、堀ノ内、宮上、宮下)の総鎮守として、天照大神以下五柱の神霊が鎮座されたと伝えられています。


五所神社



五所神社

康平3年(1060年)源義家の奥羽征討の際、社家荒井刑部実継神霊の加護により軍功をたて、治承4年(1180年)8月源頼朝が伊豆より挙兵の時、この地方の豪族土肥次郎実平は一族と共にこれを助けて頼朝の軍を土肥の館に導き、石橋山合戦進発の前夜は社前において盛大な戦勝祈願の護摩をたいたといわれています。

以来、藩主、領主、庶民の崇敬厚く、長寿長命の神、湯の産土神として今日に至っています。


神社正面の鳥居を潜り階段を登ると右側に聳えているのが、御神木の橘です。

樹齢約800年で、樹高36m、胸高周囲8.2mで、昭和59年(1984年)に「かながわの名木百選」に、平成9年(1997年)に湯河原町の天然記念物に指定されています。


 

五所神社の橘

 

五所神社の橘


五所神社から200mほど進んだ左手に「湯河原温泉の碑」があります。

この碑には湯河原温泉の由来が書かれています。「湯河原温泉の碑」から道なりに700mほど進むと湯河原町駅前観光案内所(ゴール)です。



関連のホームページ


 湯河原町観光協会



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        風来坊


湯河原温泉の碑


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