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湘南発祥の地・大磯を歩く その2 (H26.3.12)


旧吉田茂邸



旧吉田茂邸

「県立大磯城山公園」の東海道の反対側が「県立大磯城山公園・旧吉田茂邸地区」です。

旧吉田茂邸は、明治17年に吉田茂の養父健三が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年までを過ごした邸宅です。

政界引退後も多くの政治家が「大磯参り」を行い、また、元西独首相アナデウアー氏や、当時の皇太子殿下(今上天皇)と同妃殿下などの国内外の要人が招かれました。吉田茂没後には、大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど近代政治の表舞台としても利用されました。


豪壮数奇屋敷風の総檜造りの本邸は、建築家吉田五十八の設計のもと、京都の宮大工により建設されました。

日本庭園は、世界的作庭家中島健が設計したもので、本邸周辺部分は、日本庭園研究家の久恒秀治によって造られました。


吉田茂がよく散歩をしていたといわれる庭には、心字池や築山のある日本庭園、松林、バラ園、サンルームがあり、日本庭園にはあまり用いられないカナリーヤシ植えられるなど、海外赴任生活の長かった吉田茂の嗜好の多様性、様式にとらわれない人間性が色濃く反映された庭園となっています。


旧吉田茂邸



旧吉田茂邸



旧吉田茂邸

「兜門」は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」ともいわれています。

軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれています。

京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られ、昭和29年に完成しました。屋根は「檜皮葺き」という、伝統的技法が用いられており、焼失を免れた内門は貴重な建築物です。


「七賢堂」は、元々は明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲のうちの岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたものです。

伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ、「五賢堂」となりました。

昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となりました。


内門やサンルームとともに、焼失を免れ、旧吉田茂邸の歴史を感じさせる貴重な建築物です。

正面の扁額「七賢堂」の文字は、佐藤栄作元首相が書いたものです。


旧吉田茂邸・七賢堂



旧吉田茂邸再建現場

「吉田茂銅像」は、昭和58年に「吉田茂、澤田美喜両先生顕彰建立委員会」によって建立されました。日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けているといわれています。

銅像付近からは眺望が良く、富士山、伊豆半島、相模湾などが一望できるとのことですが、今回は訪ねませんでした。

旧吉田茂邸は2009年3月22日に焼失しました。

大磯町では歴史的価値のある貴重な資産を後世に伝えるため、再建に向けた取り組みを続けており、平成27年度の完成を目指して、工事が開始されています。


旧吉田茂邸から東海道に沿って約1km進むと「滄浪閣前」の信号があります。

右手に「滄浪閣」の石碑があり、その奥に立派な建物がありますが、ロープが張られています。

明治23年(1890年)頃、伊藤博文は小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めました。

別荘が完成すると、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名付けました。明治30年(1897年)伊藤博文は本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は伊藤博文の本邸となりました。


滄浪閣の石碑



宿泊施設 休館中で立入禁止

伊藤が本宅を構えた当時の大磯には、山縣有朋、西園寺公望、大隈重信などの政財界の要人が別荘を構え、滄浪閣への来訪者も絶えなかったとのことです。明治40年頃の大磯には150戸以上の別荘が存在したといわれています。

滄浪閣は伊藤博文の死後、いくつかの変遷を経て、西武鉄道に売却され、宿泊施設として開業し、大磯プリンスホテルの別館となります。

平成19年に西武グループとしての営業は終了しましたが、売却先が見つからずそのままとなっています。伊藤邸は宿泊施設の裏手にあるようです。



東海道の松並木


滄浪閣前」から「大磯中学校前」の交差点にかけては、松並木が続きます。

慶長時代の東海道から旅人を見続けてきた松並木です。
別荘地となる以前の大磯は、宿場町として栄えてきました。

鎌倉時代は古東海道の宿駅であり、鎌倉郊外の保養都市(若殿輩の遊び場)でした。

慶長5年(1600年)の関が原の合戦に勝利をおさめた徳川家康は、慶長6年には東海道に宿駅の制度を設け、その整備を行っています。


東海道の松並木



鴫立庵



鴫立庵

次いで慶長9年年には36町を1里(約3.9キロメートル)として一里塚をつくり、街道筋にはマツやエノキなどが植えられました。

大磯町内の化粧坂や中丸にあった一里塚、山王町の旧道、大磯中学校前、中丸付近の松並木はこの時に整備されたものです。

一里塚や松並木は旅人の休息の場となり、旅程の目安にもなる大切なものでした。


松並木から300mほど進んだ「鴫立沢」の信号の右手が「鴫立庵」です。
「鴫立庵」は、300年以上続く俳諧道場で、湘南発祥の地を示す史跡です。

心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮

平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれている歌です。

江戸時代初期の1664年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に鴫立沢の標石を建てました。


石仏の五智如来像



俳諧道場・秋暮亭

そして石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏)をこの地に運び草庵を結んだのが始まりとのことです。

その後、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風が鴫立庵主第一世として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として、現在第二十二世 鍵和田庵主へと続いています。


俳諧道場・秋暮亭

日本三大俳諧道場の一つで、1765年第一世・三千風入庵後約70年を経て、三世庵主の鳥酸が庵を再興した時に増築したものだといわれています。

十畳間には俳諧道場の扁額がかけてあり、鴫立庵の正庵であることを示しています


右上に俳諧道場の扁額



鴫立沢の標石

鴫立澤標石

崇雪が建てた鴫立沢の標石の裏に「著盡湘南清絶地」と刻まれているのが、湘南という言葉の始まりといわれています。湘南という言葉はそもそも中国の湘江の南方一帯の景勝地の称であり、これにちなんで、相模国南部、つまり「相南」が湘南と書かれるようになりました。

「著盡湘南清絶地」とは、「清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所」という意味です。崇雪にとって当時この辺りの海岸が、中国湘江南部の美しい景色と同じように美しい場所であったので碑を刻んだといわれています。


円位堂

三千風の建てた元禄そのままの建造物で、堂は厚い萱葺の屋根で覆われ、堂内には等身大の西行法師の坐像が安置されています。


法虎堂

有髪僧体の虎御前が19歳の姿を写した木造が安置されています。 初代庵主三千風在庵の頃に、堂も木造も江戸吉原から寄進されたと伝えられています。


円位堂



法虎堂

鴫立庵から200mほど進んだ「照ヶ崎海岸入口」の交差点の右手前に「新島襄終焉の地」の碑があります。

新島襄は同志社英学校を開設し、その後同志社大学設立を企画していましたが、病のため早くに世を去ってしまいました。

潮湯治、医療の目的で大磯海水浴場が明治18年(1885年)に松本順により開設されたことからも想像できるように、大磯海岸の潮風は病弱の人の療養には活路を開くあこがれの地であったようです。


新島襄は以前から大磯に来たいと思っていたようですが、明治22年(1889年)11月に病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年12月28日、大磯で静養し再起を計ることになりました。

海岸に程近い、百足屋旅館の別館で療養していましたが、明治23年1月23日に48歳の生涯を閉じ、大磯が終焉の地となりました。

昭和15年(1940年)に新島襄の門下生が集い、旧百足屋の敷地内に碑を建てました。

建てられました。碑文は愛弟子の徳富蘇峰の筆によるものです。


新島襄終焉の地



大磯照ヶ崎海水浴場

「照ヶ崎海岸入口」の交差点の傍に「大磯照ヶ崎海水浴場発祥の地」の碑があります。

大磯は「海水浴場発祥の地」です。

海水浴は医療として始まりました。海水浴の効用を蘭書で知った元軍医総監松本順が大磯に宿泊した折に大磯海岸を訪れ、海水浴場の条件に合致することを確認しました。

漁の邪魔になるという漁師を説得し、 明治18年(1885年)に大磯海水浴場は誕生しました。


明治19年(1886年)に東海道線の横浜〜国府津間の延長が決まってから、松本は伊藤博文に海水浴と国民の健康を力説し、大磯に停車場を設置するよう働きかけ、また旅館と病院を兼ね備えて「祷龍館」を建設し、建設資金の不足は会員を募り、渋沢栄一や安田善次郎らの東京・横浜の名士が名を連ねました。

京浜からの名士の来訪により海水浴場は繁栄し、医療行為から娯楽へ転じますます発展しました。


原敬大磯別荘跡地



地福寺



地福寺

「照ヶ崎海岸入り口」の交差点から東海道に沿って200mほど進んだ「大磯消防署前」の信号を左折し、細い路地を50mほど進むと「地福寺」です。

「地福寺」には、島崎藤村夫妻の墓碑が、樹齢100年〜200年の梅の古木約20本に囲まれて建っています。


島崎藤村が、故郷小諸に似ているからと自らこの寺に眠ることを望んだとのことです。

毎年、藤村の命日8月22日には、大磯観光協会主催による「旧島崎藤村忌」が開催され、藤村ゆかりや藤村ファンの方など多数の方が墓参・献花に訪れるとのことです。

境内には梅の花が咲いていましたが、肝心の島崎藤村夫妻の墓碑は見逃してしまいました。


地福寺



延台寺



延台寺法虎庵曽我堂

「大磯消防署前」の交差点に戻り、東海道に沿って200mほど進んだ右手が「延台寺」です。

日本三大仇討ち物語の一つ「曽我物語」のヒーロー、曽我兄弟の兄・十郎祐成と結ばれた、一代の舞の名手、虎女(虎御前)が開いたお寺です。

虎女供養塔、虎池弁財天の碑、虎御前祈願の竜神、子授け祈願の石仏、大磯宿遊女の墓等あり、古い歴史を感じさせます。また、春には境内の桜の大樹が花を競い、参詣客の目を楽しませてくれるとのことです。


虎御石

山下長者はなかなか後継ぎの子どもに恵まれませんでした。あるとき妻が、虎池弁財天に祈願を思いたち日夜お願いしたところ、夢枕に弁財天が現れました。翌朝、美しい石が置かれており、その石を日夜礼拝していたところ、めでたく女児を授かりました。1175年のことです。虎池弁財天より「虎」の字をいただいて「虎」と名づけました。
虎女が大きくなるにつれて石もまた大きくなっていく。人々は生石といって不思議がり、山下長者はありがたい霊験にお堂を建てて、弁財天とともに虎女の守り本尊としました。
この石が「虎御石」です。

我十郎の仇討ちの相手、工藤祐経は仇討ちの気配に気付き、十郎が山下長者の屋敷にちょくちょく来ることを知り、刺客を差し向けました。十郎めがけて矢を射かけたが、矢は見事にはね返され、続いて太刀で切りつけたが歯がたちませんでした。よくみればそれは大きな石であり、刺客は驚いて逃げ帰りました。
その大きな石こそ「虎御石」であり、矢の当ったあたりに矢きずのくぼみができ、長い刀きずもついていました。それ以降、「虎御石」を「十郎の身代わり石」とも呼ぶようになりました。

虎御石は周囲86cm、重さ130kgです。

虎御石まつりに毎年ご開帳され、大願成就等ご利益があるとされています。

十郎を守った虎女の愛の証、矢キズが確認できます。

虎御石は法虎庵曽我堂に安置されています。

延台寺



大磯宿遊女の墓

延台寺から100mほど進んだ「大磯駅入り口」の交差点を左折し、道なりに300mほど進むと大磯駅です。


関連のホームページ 

 大磯観光情報「イソタビ」


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            風来坊


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