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猿橋 (H23.8.10)


猿橋



猿橋



猿橋への入り口

「猿橋」は山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川(相模川)に架かる橋です。

江戸時代には「日本三奇矯」の一つとしても知られ、甲州街道の架かる重要な橋でした。

現在では現存する唯一の刎橋です。

橋長30.9m、幅員3.3m、橋高水面まで30mです。


猿橋は桂川の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなっている地点に架けられています。

幅が狭ければ橋脚を河原に下ろさずに済み、橋が高い場所にあれば水位が高くなっても川の水に接することはありません。

このような地点に架橋できれば、洪水の影響を受けずに済むわけです。


工事中で通行止めでした



猿橋



猿橋

しかしながら、そのためには橋脚なしで橋を渡す技術が必要です。

こうした条件では吊り橋が用いられるのが常ですが、江戸時代の日本にはもう一つ刎橋という形式が存在していました。


刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させます。

その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせます。

支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出します。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていきます。

これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にします。

猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護しています。


猿橋



猿橋



猿橋

猿橋については、7世紀に猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説があります。

鎌倉時代には既に存在していたらしいですが、その起源ははっきりとしていません。

古くは吊り橋だったとする推測もあり、刎橋になった時期は不明です。

延宝4年(1676年)以降に橋の掛け替えの記録が残っており、少なくとも宝暦6年(1756年)からは類似した形式の刎橋であったと推測されています。


この様な構造の橋は猿橋のみではありませんでしたが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされました。

甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、歌川広重は天保12年(1641年)に甲斐を訪れた際にスケッチを行い、後に大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけています。

また荻生徂徠など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成しており、明治期には富岡鉄斎が「甲斐猿橋図」(大木コレクション)を描いています。


猿橋



猿橋展望台から



猿橋展望台から



猿橋展望台から

昭和7年(1932年)に国の名勝に指定されました。

昭和9年(1934年)に上流に新猿橋が造られ、国道(当時は国道8号、現在は山梨県道505号)はそちらを通るようになりました。

昭和48年(1973年)には別の新猿橋が下流に造られ、国道20号が通るようになりました。2つの新猿橋は現在も使用されています。


古い猿橋を継承するために、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、昭和59年(1984年)に架け替えられました。

これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて嘉永4年(1851年)の橋を復元したものです。


この橋の近くでは室町時代の応永33年(1426年)に鎌倉公方足利持氏配下の一色持家と甲斐の国人武田信長が交戦、一色が勝利して武田信長を鎌倉へ捕虜として連れ去ったとされる、猿橋の戦いがありました。

          風来坊


猿橋展望台から


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