散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

芝・愛宕山散策 その1 (H23.9.11〜9.14)


東京タワーから見るの散策経路(浜松町駅〜芝公園)



東京タワーから見る散策経路(東京タワー〜愛宕山)



芝大門更科布屋

古寺名刹に見守られ、発展を遂げてきた芝界隈。

長く人々の尊崇を集めてきた芝大神宮と増上寺にお参りし、かつて増上寺の境内だった芝公園を経由して東京タワーに。

展望台から東京のパオラマを満喫した後、愛宕山に向かい、日本最初の放送が行われたNHK放送博物館、出世の石段で有名な愛宕神社を訪ねました。


今回の散策コースは次のとおりです。

JR浜松町駅(都営地下鉄大門駅)→芝大神宮→増上寺→芝公園→東京タワー→青松寺→NHK放送博物館→愛宕神社→浅野内匠頭終焉の地→新橋駅西口


芝大神宮への入口



芝大門更科布屋

JR浜松町駅北口から竹芝通りを増上寺の方向に300mほど進み、進行方向右側にある都営地下鉄大門駅のA6出口の傍の「芝大門更科布屋」の先を右折して、細い路地を100m程入った左手にあるのが「芝大神宮」です。


「芝大門更科布屋」は寛政3年(1791年)創業の老舗で、210年の伝統に培われた格式と技術で届ける真の江戸蕎麦が自慢とのことです。

15種類の「更科家伝変わり蕎麦」と「生粉打ち蕎麦(蕎麦粉100%)」が江戸の食文化を伝えています。

蕎麦店は元来、庶民の居酒屋だったとのことで、宴席用「蕎麦会席」を始めとする時季折々の小粋な酒肴も楽しむことができるとのことです。


ガス灯



芝大神宮



芝大神宮

「芝大神宮」は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神として祀っている、寛弘2年(1005年)に創建された古社です。

当初は飯倉山(現在の芝公園)に鎮座していましたが、増上寺の芝公園への移転に伴い、慶長3年(1598年)に現在地に移ってきています。



芝大神宮


このため、古くは飯倉神明宮、芝神明宮と称され、鎌倉時代においては、源頼朝より社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々で賑わいました。


芝大神宮



芝大神宮

例年9月16日の例祭を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それらが長期間「だらだら」と続くために、古来より「だらだら祭り」とも呼ばれています。

また期間中に風邪予防にご利益のある、生姜を授与しているところから、別名「生姜祭り」とも称されています。



芝大神宮


芝大神宮


芝大神宮は、歌舞伎の「め組の喧嘩」の舞台として知られていますが、2月の節分祭には、「半鐘祭」が行われます。

これは、芝大神宮の氏子域を管轄する江戸町火消しの「め組」衆が参詣し執行しています。

芝大神宮は、文化2年(1805年)2月に境内で起こった「め組の喧嘩」の舞台であり、この半鐘を鳴らしたため騒ぎが大きくなったといわれています。

このため、半鐘は遠島処分になり、明治時代になって芝大神宮に戻ってきたとのことです。


芝大神宮



増上寺大門



増上寺大門

芝大神宮から竹芝通りに戻り、増上寺の方に向けて100m程進んだところが「芝大門の交差点」で、その傍にあるのが「増上寺大門」です。

「大門」は増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来にもなっています。

現在の大門は、国道の通行整備のため、昭和12年(1937年)に原型よりも大きく、コンクリート製に作り直されたものです。

大門の下を車が通行します。


旧大門は、慶長3年(1598年)に江戸城の拡張造営にあたり、増上寺が芝に移転した際に、それまで江戸城の大手門であった高麗門を、徳川家康から増上寺の表門として譲られたものです。

旧大門は関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国の回向院に移築しましたが昭和20年の空襲で焼失しています。


増上寺大門〜三門の光景


大門から200m程進んだところが、増上寺です。
増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。
増上寺は、明徳4年(1393年)に浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地)に開かれました。
室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展しました。

安土桃山時代、徳川家康が関東の地を治めるようになってまもなくの、天正18年(1590年)に徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました。
徳川家康がときの住職源誉存応上人に深く帰依したため、と伝えられています。
慶長3年(1598年)に、現在の芝の地に移転。
江戸幕府の成立後は、徳川家康の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。

徳川家康は元和2年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。
増上寺の徳川将軍家の墓所には6人の将軍が眠っています。
戦災によって徳川将軍家霊廟は焼失し、焼失をのがれた三門、経蔵、黒門などを含む境内は、昭和49年(1974年)完成の大本堂とともに、近代的に整備されています。



増上寺三解脱門



三解脱門

三解脱門(三門)

増上寺の表の顔として、道往く人々に威風堂々とした姿を見せる三門は、増上寺の中門(表門は大門)に当たり、正式名称は三解脱門です。

三解脱門とは三毒煩悩から解脱するという意味で、むさぼり、いかり、おろかさの3つの毒から離れ、極楽浄土に入る心をつくるための門です。


慶長16年(1611年)、徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立され、元和8年(1622年)に再建されました。

増上寺が江戸初期に大造営された当時の面影を残す唯一の、東京都内で最も古い木造建築物の一つです。

建築方式は、入母屋造り・本瓦葺きの屋根に朱漆喰重層の大楼門で、唐様を中心とした建物に和様の欄干などが加味され、美しさを見せています。


三解脱門の楼上には、中央に釈迦三尊像、その左右に八躯隊ずつ、計16躯の羅漢像が安置されています。

通常は非公開ですが、2011年9月17日〜11月30日の間、戦後初の一般公開が行われました。

楼上は撮影禁止でしたので、残念ながら紹介できません。


三解脱門楼上への階段



本堂



本堂

本堂

本堂は戦災で焼失しました。

現在の本堂は、昭和49年(1974年)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で再建されたものです。


安国殿

恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られています。

黒本尊は徳川家康が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。


安国殿



本堂と光摂殿



光摂殿

光摂殿

光摂殿、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として、平成12年(2000年)に完成しました。

1階講堂、3階に大広間を備えています。

百八畳敷の大広間の格天井には、日本画家120名が描かれた草花図が嵌めこまれています。


経蔵

徳川幕府の助成により建立された経蔵は、内部中央に八角形の輪蔵を配する、八間四面、土蔵造りの典型的な経蔵で、東京都の有形文化財に指定されています。

中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、徳川家康が増上寺に寄進したもので、国の重要文化財に指定されています。

現在は後方の収蔵庫に移管されています。


経蔵



鐘楼堂

鐘楼堂

最初の鐘楼堂は寛永10年(1633年)に建立されましたが、現在の鐘楼堂は戦後再建されたものです。

鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)に完成したもので、江戸三大名鐘の一つです。

江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、江戸っ子鐘と親しまれていました。



かつて増上寺山内の北側と南側に、厳粛かつ壮麗な徳川将軍家霊廟が広がっていました。

御霊を祀るために造営された墓所・本殿・拝殿を中心とした施設の数々には、その当時最高の技術が駆使され、戦前国宝に指定されていました。

しかし、昭和20年の戦災により殆どが焼失し、わずかに残った建物もその指定を解除されました。

昭和33年から学術調査が行われ、南北に配していた墓所は本堂裏手の現在地に改葬されました。


鋳抜門



2代将軍秀忠とお江の方の墓所

徳川将軍家墓所の正面にある入口の門が、旧国宝の「鋳抜門」です。

文昭院殿霊廟(6代将軍徳川家宣)の宝塔前「中門」を移築したものです。

左右の扉に5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。

規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。


増上寺は東京上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺です。

増上寺には2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠夫人)、皇女和宮さま(14代家茂夫人)ら5人の正室、3代家光公側室桂昌院(5代綱吉実母)はじめ5人の側室、及び3代家光第3子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。


2代将軍秀忠とお江の方の墓所



6代将軍家宣墓所


7代将軍家継墓所



9代将軍家重墓所


12代将軍家慶墓所



14代将軍家茂墓所


14代将軍御正室和宮墓所



水盤社

徳川将軍家墓所が公開される日は限定されていますが、今年はNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が放映されていたことから、長期間にわたり一般公開されていました。


水盤社

もとは清揚院殿霊廟(3代将軍家光の三男である甲府宰相綱重)の一部でした。

明治時代の解体、昭和の空襲を逃れたものを、現在地に移築したものです。

徳川将軍家霊廟建築を伝える貴重な遺構のひとつです。


水盤社



千躰子育地蔵尊



西向観世音

安国殿の隣に西向観世音があります。

鎌倉時代、執権北条時頼が観音山に辻堂を建立し、石造の観音像を祀ったことに始まると伝えられています。

慶長3年(1598年)に増上寺が移転してきたことにより境内地に含まれることとなり、山内霊場・西向観音として信仰を集めました。


西向観世音の境内に千躰子育地蔵尊があります。

子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50年(1975年)より順次奉安されています。

毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されます。


西向観世音



千躰子育地蔵尊


千躰子育地蔵尊



黒門

黒門

黒門は、増上寺方丈の表門であった旧方丈門です。

3代将軍徳川家光の寄進、建立とされており、慶安年間(1648年〜1652年)の建立です。

昭和55年(1980年)に増上寺の通用門として日比谷通り沿いに移築したものです。


黒門を出て日比谷通りを西向きに100m程進むと芝公園です。

芝公園の手前に重要文化財の「旧台徳院霊廟惣門」があります。

「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置されている木造仁王像は、18世紀前半までに江戸の仏師によって制作されたもので、江戸時代の仁王像として破綻のない作行き示す貴重な作品です。

港区の有形文化財に指定されています。


旧台徳院霊廟惣門



木造仁王像


木造仁王像



芝公園



芝公園 平和の灯

芝公園は日本で最も古い公園の一つです。

明治6年(1873年)の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山とともに芝の5カ所が、日本最初の公園として指定され、以後の公園造成の先駆けとなりました。

当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後の政教分離によって境内の部分が除かれ、増上寺を取り囲む環状の公園となりました。


園内には、歴史の古い公園らしく、クスノキ、ケヤキ、イチョウなどの大木が所々にあります。

また、現在、スポーツ施設として、野球場とテニス場がありますが、芝公園は明治35年に運動器具が備えられ、東京の公園における運動施設の始まりという歴史を持っています。

芝公園からの東京タワーの展望が素晴らしいものがあります。


芝公園 水路跡



芝東照宮



芝東照宮

芝公園の一角に「芝東照宮」があります。

芝東照宮の祭神は徳川家康、神体は徳川家康寿像です。

日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つです。

芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿でした。

徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に、自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城において祭祀していました


元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。この社殿は家康の法名から「安国殿」と呼ばれ、これが芝東照宮の起源です。

明治初期の神仏分離令により、増上寺から切り離され芝東照宮となりました。

東京大空襲で「寿像」と神木のイチョウを残して焼失し、昭和44年(1969年)現在の社殿が再建されました。


芝東照宮



芝東照宮



芝・愛宕山散策 その2へ


     風来坊


目次  TOP  HOME