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隅田川テラス散策(勝鬨橋〜吾妻橋)その3 (H23.5.18〜5.20)

隅田川大橋〜両国橋


隅田川大橋から清洲橋までの左岸の隅田川テラス



隅田川大橋から清洲橋までの左岸の隅田川テラス

隅田川大橋からは、清洲橋とその向こうに東京スカイツリーを眺めることができます。

また、隅田川大橋から清洲橋までの左岸隅田川テラスは、前方に清洲橋と東京スカイツリーを眺めながら散策することができます。


隅田川大橋の右岸は、日本橋川河口に位置する箱崎地区であり、春には堤防上の桜を楽しむことができます。

隅田川大橋から清洲橋までの右岸のテラスも綺麗に整備されていますが、右岸からは東京スカイツリーはビルに遮られて望むことができません。


隅田川大橋から清洲橋までの右岸の隅田川テラス



清洲橋



清洲橋

清洲橋は関東大震災の震災復興事業として、永代橋とともに計画された橋です。

「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインです。

当時世界で最も美しい橋と呼ばれていたドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしています。



清洲橋


清洲橋


モデルにした大吊り橋は第2次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建されたため、現在は吊り橋ではなくなっています。

清洲橋の架橋されたのは、もともと「中洲の渡し」という渡船場のあった場所です。

清洲橋という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られたものです。


清洲橋とスカイツリー



清洲橋から上流の展望



東京スカイツリーと芭蕉記念館

平成19年(2007年)に、勝鬨橋、永代橋とともに国の重要文化財に指定されています。

隅田川は清洲橋の上流で大きく左にカーブしています。

勝鬨橋から隅田川大橋までは、橋の上から隅田川の上流方向を眺めた場合は必ず上流にある橋を眺めることができましたが、清洲橋からは上流の橋を眺めることはできません。


清洲橋の上からは正面に東京スカイツリーを眺めることができます。

また、隅田川が大きくカーブしている付近には芭蕉記念館があり、清洲橋の上を移動すると東京スカイツリーの下方に芭蕉記念館を見ることができるポイントもあります。


東京スカイツリーと芭蕉庵史跡展望公園



清洲橋から上流の展望



清洲橋の上流右岸の隅田川テラス

清洲橋から新大橋までの右岸の隅田川テラスは、煉瓦造りの壁面や散策路が整備されています。

また、樹木や花壇などによって緑が確保されています。

前方や右手に東京スカイツリーを眺めながら散策できます。


隅田川が上流に向かって左に大きくカーブする付近に東京消防庁の消防艇が係留されていました。



萬年橋



萬年橋

清洲橋から新大橋までの左岸隅田川テラスは、小名木川で途切れており、萬年橋を経由して小名木川の上流側の隅田川テラスに出ることになります。

小名木川は江戸市内へ行徳の塩や近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河であり、架けられる橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていましたが、萬年橋はその中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿は葛飾北斎の富嶽三十六景や歌川広重の名所江戸百景で取り上げられています。



ケルンの眺め


また、隅田川に架かる清洲橋は、萬年橋のたもとからの眺めがもっとも美しく見える角度とされ、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊り橋を彷彿させることから「ケルンの眺め」と呼ばれています。


芭蕉稲荷大明神



芭蕉庵跡の石碑

萬年橋の北岸は松尾芭蕉が居を構えた場所です。

萬年橋を南から北側に渡って、最初の辻を左に30mほどはいると右手に芭蕉稲荷大明神があります。

大正6年(1917年)の大津波の後、この場所で「芭蕉遺愛の石の蛙」が発見されたことから、芭蕉庵のあった場所とされています。

発見された蛙は、芭蕉記念館で展示されています。


また、芭蕉稲荷大明神からさらに50mほど進んだ左手に芭蕉庵史跡展望庭園があります。

隅田川と小名木川の合流する地点です。

庭園内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフを配しており、往時を偲ぶことができます。

芭蕉翁像は、午後5時になると隅田川に向かって像が回転するとのことです。

像はライトアップされ、隅田川を行く船々を見守っているかのように見えるとのことです。


芭蕉庵史跡展望庭園



芭蕉庵史跡展望庭園入口


芭蕉翁像



清洲橋上流の左岸の隅田川テラス



清洲橋上流の左岸の隅田川テラス

萬年橋の傍の階段から隅田川テラスに出ることができます。

芭蕉稲荷大明神と芭蕉庵史跡展望庭園は堤防の外側にあるため、隅田川テラスに設けられている階段を登って堤防の外側に出る必要があります。

この付近の隅田川テラスには芭蕉の句が掲げられています。



大川端芭蕉句選


大川端芭蕉句選


芭蕉庵史跡展望庭園から200mほど上流に進んだところに江東区芭蕉記念館があります。

松尾芭蕉の業績を顕彰するために、「芭蕉遺愛の石の蛙」の出土したゆかりの地に、昭和51年に芭蕉記念館を、平成7年に同分館(芭蕉庵史跡展望園)を開館しました。

芭蕉記念館には芭蕉をはじめ江戸時代から近現代までの俳句文学資料が随時展示されています。


江東区芭蕉記念館



芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠


古池や蛙飛び込む水の音



江東区芭蕉記念館

芭蕉記念館には、芭蕉の句に詠まれた草木を植え、池を配した日本庭園があります。

築山には、芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠と、「古池や蛙飛び込む水の音」と「川上とこの川下や月の友」の芭蕉句碑があります。

玄関前には「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」の芭蕉句碑があります。



新大橋


芭蕉記念館から200mほど上流にあるのが新大橋です。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)です。

隅田川3番目の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名付けられました。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられています。


新大橋



新大橋と両国橋の間の左岸隅田川テラス

当時の橋は現在の位置よりもやや下流で、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰めとしました。

橋が完成していく様子を、東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。

初雪や かけかかりたる 橋の上

ありがたや いただいて踏む はしの霜



右岸隅田川テラスからの新大橋


新大橋は江戸時代には破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えたといわれています。

幕府財政が窮地に陥った亨保年間に幕府は廃橋を決めるが、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続が認められました。

その後明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に架けられました。

現在の橋は昭和52年(1977年)に架け替えられたものです。


左岸の隅田川テラス



大震火災記念碑


人助け橋の由来碑


関東大震災の際に隅田川の多くの橋が焼け落ちましたが、新大橋は被災せずに避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称されています。

現在でも橋の西詰めにある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」「人助け橋の由来碑」があり、近くにある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたといわれています。



新大橋から両国橋までの間の隅田川テラス


新大橋の上流約500mで首都高速6号線向島線と首都高速7号線小松川線が合流しつつ隅田川を横切り、下流方向に大きくカーブしてそのまま隅田川の右岸に沿って箱崎JCTに向かって走っています。

このため、新大橋から両国橋までの右岸の隅田川テラスは、500mほど高速道路の下を散策することになります。


観潮できる隅田川テラスのエリア



テラスギャラリー


テラスギャラリー



新大橋から両国橋までの間の隅田川テラス

隅田川テラスが高速道路の下になっているエリアがテラスギャラリーになっています。

また、観潮ができるエリアも設けられています。


隅田川テラスの堤防の上が浜町公園です。

浜町公園は関東大震災によって壊滅的な打撃を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園、錦糸公園と並んで計画された公園です。

この場所は江戸時代は熊本藩主細川氏の下屋敷があり、明治期以降も細川家の邸宅がありましたが、公園として整備されて昭和4年(1929年)に開園しました。


清正公寺



中央区立総合スポーツセンター

公園内には広場のほか、熊本藩主細川斉護によって建てられた加藤清正を祀る清正公寺があります。

現在は園内にデイキャンプ場や運動広場のほか、中央区立総合スポーツセンターがあります。



右岸の隅田川テラス


首都高速道路が隅田川を横切っている付近から隅田川は徐々に右旋回して両国橋に至ります。

この付近の隅田川テラスには休憩できる施設がいろいろと設けられています。


右岸の隅田川テラス



右岸の隅田川テラス


右岸の隅田川テラス



右岸の隅田川テラス

隅田川テラスは両国橋の少し下流で途切れています。

また、両国橋は工事中でした。



左岸の隅田川テラスの光景


新大橋から両国橋までの左岸の隅田川テラスは堅川水門で途切れています。

高速道路が隅田川を横切る付近です。

一之橋で堅川を横切って隅田川テラスに戻ることができます。


堅川水門



左岸の隅田川テラスの光景

両国橋の創架年は万治元年(1659年)と寛文元年(1661年)の2説がありますが、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋です。

最初は「大橋」と名付けられていましたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていることから俗に両国橋と呼ばれていましたが、元禄6年(1693年)に新大橋が架橋されると正式名称となりました。



両国橋


江戸幕府は防備上の観点から隅田川への架橋は千住大橋以外は認めませんでした。

しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火において、橋がなく逃げ場を失った江戸市民が火勢にのまれ、死傷者は10万人に及び、事態を重く見た江戸幕府は防火・防災のために架橋を決断することになります。

両国橋架橋後は市街地が拡大され本所、深川方面の発展に幹線道路として寄与するとともに火除地としての役割も担いました。


両国橋と東京スカイツリー



両国橋から下流の展望

両国橋は流失、破損などにより何度も架け替えがなされ、明治20年(1897年)には現在地よりも20mほど下流に鉄橋が架橋されます。

この橋は関東大震災では大きな損傷もなく生き残りますが、他の隅田川橋梁群の復興工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられました。元の橋の一部が亀島川の南高橋として移設されました。


両国橋は平成20年(2008年)に言問橋とともに東京都選定歴史的建造物に選定されています。



両国橋


両国国技館


関連するホームページ

 隅田川を歩こう


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       風来坊


両国橋から上流の展望


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