散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

佃島・月島散策 その3 (H23.2.1〜2.13)

下町の新しい顔


大川端リバーシティ21 手前は佃公園



隅田川右岸からの光景 手前は佃大橋

佃島や月島は、昔から水辺や運河に囲まれて水と親しんできた人々の暮らしは今も変わらず下町情緒がいっぱいです。

その一方で近年は大川端リバーシティ21地区をはじめとする都市再開発が進み、それらの地域は新世紀に相応しい質の高い快適な都市型生活環境を実現している人気のスポットとなり、人口の増加も著しいところです。


石川島灯台跡のある佃公園から隅田川河畔を上流に向かって進むと石川島公園となります。

左手に見えるのがモダンな白い主塔のある中央大橋で、右手が大川端リバーシティの超高層マンション群です。


中央大橋と東京スカイツリー



永代橋と東京スカイツリー

江戸時代には隅田川河口付近には佃島と石川島の2つの島がありました。

石川島はその昔は鎧島と呼ばれる無人島でしたが、この鎧島に石川八左衛門が屋敷を建てたことから、石川島と呼ばれるようになりました。


幕末の嘉永6年(1853年)、黒船の来襲に驚いた幕府の命により、水戸藩主徳川斉昭が石川島に造船所を建造し、「石川島造船所」と命名しました。

これが現在の「石川島播磨重工(IHI)」の母胎です。

このため、石川島は日本における近代的造船業の発祥の地でもあり、公園内に「日本初の民営洋式造船所発祥の地」の記念碑が建っています。

「石川島」の地名は「佃」に統合されて、現在は残っていません。


日本初の民営洋式造船所発祥の地の記念碑



石川島資料館

石川島播磨重工業(IHI)の石川島の工場は昭和54年(1979年)にその役割を終え、その後はウオーターフロント開発の先駆として、リバーシティ21と名付けられて発展を遂げています。

このリバーシティの高層マンション群の中の、低層の建物の中に「石川島資料館」があります。

「石川島資料館」では、造船の創業から現在までと、それと関わりを持つ石川島・佃島の歴史や文化などを紹介しています。



中央大橋


中央大橋は中央区の新川と佃を結ぶ橋で、平成5年(1983年)完成の隅田川で2番目に新しい橋です。

佃島から中央大橋を渡って真っ直ぐ進むと約2kmで東京駅八重洲口です。

橋はフランスのデザイン会社の設計で、白い主塔は兜をデザインしているとのことです。

中央大橋の前方には東京スカイツリーを望むことができます。

中央大橋の佃島側の高層ビル群が、大川端リバーシティ21です。大川端リバーシティ21は、8棟の超高層マンションを中心とする大規模住宅群です。

都心回帰の促進を図るため、住宅市街地総合整備事業の整備計画に基づいて、住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)、東京都住宅局、東京都住宅供給公社、三井不動産によって進められた、石川島播磨重工業(IHI)跡地の再開発事業です。


大川端リバーシティ21



大川リバーシティ21の遊歩道 右前方は永代橋

個々の高さやデザインを少しずつ変えながらも全体として統一された外観は評価が高く、隅田川と調和した景観としてよく取り上げられます。

特に永代橋からの眺めは有名とのことです。

下町の町並みともしばしば対照されます。



相生橋


大川端リバーシティに沿って隅田川河畔の散策路を進むと左手に「相生橋」が見えてきます。

相生橋は中央区佃と江東区越中島を結ぶ橋で、「清澄通り」が隅田川の支流である「隅田運河」を渡る橋で、正確には隅田川に架かる橋ではありません。

明治36年(1903年)に架けられた橋で、佃島、石川島、月島地区にとっては初めての橋で、地元住民が待ちに待った橋です。


中の島公園 前方の3本マストが明治丸



中の島公園

ちなみに、勝鬨橋は昭和15年(1940年)、佃大橋は昭和39年(1964年)です。

最初の橋は「中之島」という中洲で2分されていました。

現在の相生橋は平成10年(1998年)に完成したものです。


相生橋を渡った右手にあるのが東京海洋大学(旧東京商船大学)でそのキャンパスに明治丸が保存されています。明治丸は明治7年(1874年)にイギリスで灯台巡視船として建造されました。

明治天皇が東北巡幸の際に乗船されています。

明治天皇が東北巡幸から帰着された7月20日が「海の日」に制定されています。


明治丸


明治天皇聖蹟の碑


明治29年(1896年)からは商船学校に譲渡されて係留練習船として使用されています。


現在修復工事中で残念ながら見学できませんでした。


相生橋を渡って、清澄通りをそのまま進むと門前仲町、両国さらには浅草の吾妻橋1丁目となります。

また、相生橋の手前を反対方向に進むと、約300mで月島駅、その先が勝どき駅です。

勝どき駅から両国駅までは、清澄通りの下を都営大江戸線が走っています。


相生橋近くから豊洲ハイツを望む



護岸の空間を利用した花壇

相生橋から隅田川(隅田運河)河畔に沿って石川島公園を進むと200m程で幅広い散策路が途切れ、その先は護岸の内側に細い遊歩道が続いています。

遊歩道の護岸側の窪みを利用して花壇が設けられていました。

いろいろな花が咲き誇っており、狭い空間を利用した憩いの場ともいえるものです。



花壇のある遊歩道の終わる場所の右手に「海水館」の石碑が建っています。

この付近は明治29年に完成した新佃島の埋立地の一部で、房総の山々を望むことができた静閑な景勝地でした。

ここには明治末期から大正期にかけて多くの文化人が集まった海水館がありました。

海水館は坪井半蔵が明治38年に開業した割烹旅館兼下宿です。



海水館の石碑

島崎藤村は明治40年から41年にかけて止宿し「春」を朝日新聞に連載し、小山内薫は明治42年から44年にかけて止宿して「大川端」を読売新聞に連載しました。

ほかにも荒畑寒村、木下杢太郎、佐藤惣之助、竹久夢二、三木露風、吉井勇などの多くの作家・芸術家が利用して創作活動を行ったとのことです。

この日は藤村の母校の明治学院大学の藤村研究部によって建てられたものです。



トリトンスクエア「桜の散歩道」


護岸沿いの歩道は「海水館」の石碑のところで終了しており、碑のある場所から下の道路に降りて左方向に150m程進むと小さな公園「佃3丁目児童公園」があり、その上を広い道路が走っています。

道路の下を右手に100m程進むと「月島駅」の1番出口です。

道路の下を抜けると小さな公園がありその先に真っ直ぐ伸びているのが「東仲通り」です。

東仲通りを真っ直ぐ進み3つ目の「月島4丁目第2」の信号を左折して200m程進むと晴海運河にかかる「清月橋」です。

右手前方の高層ビルが晴海トリトンスクエアです。

清月橋を渡ると左右に「桜の散歩道」と名付けられた広い散策路が続いており、運河沿いには数多くのベンチが設けられています。


トリトンスクエア



トリトンスクエア

晴海アイランド トリトンスクエアは、東京都中央区晴海一丁目にある3棟のオフィスビルを中核とした複合商業施設ならびに住居群です。

日本住宅公団の晴海高層アパートなどがあった場所を再開発して造られました。



トリトンブリッジ


通勤する人の多くは大江戸線勝どき駅より徒歩で晴海通りを南下し、黎明橋に並列して架かっている動く歩道のトリトンブリッジを渡ります。

運河にかかる動く歩道は珍しいとのことです。

トリトンブリッジには屋根が設けられており、雨の日に橋の上で強風に傘があおられるのを防ぐことができます。


トリトンブリッジ



トリトンブリッジ

「勝どき駅前」の交差点から清澄通りを豊海の方向に300m程進んだ橋の手前の左側に「東陽院」があります。

東陽院に十返舎一九の墓があります。

十返舎一九は本姓を重田といい、明和2年(1766年)駿河(静岡市)に生まれました。

その後、江戸に出て、日本橋の出版業者・蔦屋重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書きました。


なかでも、「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢神宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、一九の代表作となりました。

天保2年(1832年)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られました。


東陽院



十返舎一九墓所の碑

東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移されました。

墓石には次の辞世が刻んであります。

此世をば どりやお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら

墓は見ることができませんが、門前に碑が建てられています。



トリトンブリッジから


 佃島・月島散策その1へ

 佃島・月島散策その2へ



        風来坊


トリトンスクエアとトリトンブリッジ


目次  TOP  HOME