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佃大橋から佃島公園を望む 背後は大川端リバーシティ21
佃島大橋と佃島
築地から勝鬨橋や佃大橋で隅田川を渡った佃島、月島界隈は、水辺や運河に囲まれ昔から水と親しんできた町です。 人々の暮らしは、下町情緒たっぷりです。 その一方で、トリトンスクエアや大川端リバーシティ21などの再開発により高層ビルが立ち並ぶ新しい下町の顔も誕生しています。
佃島、月島界隈を散策しました。 今回のコースは次のとおりです。 東京メトロ有楽町線月島駅(都営地下鉄大江戸線月島駅)→佃波除稲荷→佃天台地蔵尊→佃小橋→住吉神社→石川島灯台跡→佃島渡船碑→佃煮の老舗→月島の渡し跡→銀座の柳三世跡→もんじゃストリート→月島観音、月島温泉→月島交番→奈良間稲荷→月島駅
佃大橋からの東京スカイツリー 右下が佃島公園
佃小橋の向こう側が最初の埋立地
佃島は天正18年(1590年)徳川家康が関東下降の際、摂津国佃島の漁夫33人と神主平岡権太夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)に鉄砲州沖の干拓を拝領して埋め立てを進め漁師町を形成しました。故郷の名にちなんで佃島と命名しました。 漁師達は将軍に白魚献上の御用を勤めました。 関東大震災、戦災の難を免れたため、長い年月の変容をうけながらも昔のたたずまいを残しています。
当時の佃島は、現在よりもずっと規模が小さく、佃小橋が架かっている先の部分しかありませんでした。百間四方ともいわれています。 その後、明治中期になってこの付近の埋め立てが進み、佃島の東側も埋め立てられ、「新佃島」と呼ばれることになります。
新旧混在
佃島公園
一方、月島は新しい街です。 江戸・東京の水上交通の大動脈だった隅田川は、今から100年ほど前、年々堆積する土砂により、船舶の往来が困難になった。 このため、明治20年(1887年)東京府は隅田川の浚渫を始め、その土砂で埋め立て造成されたのが、現在の月島です。
明治25年(1992年)に月島1号地(現月島)、明治27年(1994年)に月島2号地(現勝どき)、明治29年(1996年)に新佃島(現佃3丁目)が、次々に誕生しました。 当時の月島地区は、富国強兵の国策に沿い鉄工業地帯とされました。 月島の名前は東京湾内にあった月の岬という月見の名所から名付けられています。
波除稲荷神社
月島駅の6番出口を出ると「佃・月島散歩マップ」が建っています。 マップのそばに高架の道路があり、この高架に沿って佃大橋の方向に200m程進むと右手に佃公園があります。 佃公園の手前を堀に沿って右方向に進むと堀沿いに佃波除稲荷神社があります。 波除稲荷神社の鳥居脇に、3個の力石が置かれています。長径50センチメートル前後の楕円形の石で、どれにも「さし石」の刻銘があり、材質は安山岩です。
佃島では漁業に従事する若い衆などが、力競べとして石を持ち上げることが盛んに行われました。 力石を「さし石」と呼び、持ち上げることを「さす」とか「あげる」と呼んで、関東大震災のころまで、その習慣は続いていました。 石の一つには「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など佃ゆかりの力持ちの名も刻まれ、力競べの習慣を今日に伝えています。
力石
佃天台地蔵尊
佃波除稲荷神社の前の住居の傍らに「佃天台地蔵尊」の案内があります。 案内にしたがって細い路地を入っていくと右手奥に立派な地蔵尊があります。
そして地蔵尊手前には大きな木の太い幹があります。 屋根を貫く大きなイチョウの樹です。 この佃天台子育地蔵尊は、子供をさまざまな厄災から守り、同時に長壽延命、家内安全、諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っています。
佃天台地蔵尊 大きなイチョウの樹が!
前方が佃小橋、右前方緑の屋根が波除稲荷神社
隅田川からの入り江
佃波除稲荷神社の近くにある赤色の欄干の橋が「佃小橋」です。 佃小橋の背景には大川端リバーシティ21の高層ビルが建ち並んでおり、戦前からの古い町並みや釣り船と超高層マンション群が隣り合わせにある、独特の景観となっている。
佃小橋の下の水路は隅田川からの入り江となっており、住吉水門で水位調整をしています。 小舟が浮かび、ホッとするような光景が展開されています。 佃小橋の斜め下に、「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱、抱が埋設されておりますので、立ち入ったり掘り起こしたりしないでください。佃住吉講」という看板が立っています。
住吉神社
佃小橋を渡り最初の辻を右に曲がった突き当たりが「住吉神社」です。 住吉神社は、摂津国佃島の漁師達が干拓地を埋め立てて佃島に移住したのち、正保3年(1646年)に大阪の住吉神社を分社して、現在地に創建した佃島の鎮守です。 以来、佃島の人々、水運関係の人々から厚い信仰をうけています。 境内の鳥居には有栖川宮幟仁親王筆による陶製の住吉神社扁額が格式高く飾られています。
住吉神社の境内に「鰹塚」の大きな石碑があります。 昭和28年に東京鰹節類卸商業協同組合によって建立されたものです。 住吉神社前が廻船の港だったことから廻船問屋筋の信仰があり、その繋がりから建てられたようです。
鰹塚
本堂の左に赤レンガの倉庫
水色の鳥居を右手に進むと住吉神社です
石川島の灯台は慶応2年(1866年)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台でした。 この灯台の完成を最も喜んだのは近在漁師でした。
石川島灯台跡
住吉水門からの水路 左は佃公園
佃公園を整備するに際してモニュメントとして灯台が建設されたものです。 佃公園は、佃波除稲荷神社や佃小橋のある佃堀広場、石川島灯台のある灯台広場、佃堀広場と灯台広場の中間が憩いの広場と堀に沿って整備されている細長い公園です。
中央大橋と東京スカイツリー
明治9年(1867年)7月には、渡し銭1人5厘の掲示板の下付けを願い出ています。 大正15年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳船渡船となりました。 この石碑はその時期に建てられものです。 昭和30年には1日70往復にもなりましたが、昭和39年8月の佃大橋完成によって300年の歴史を持つ佃渡船は廃止になりました。
「佃渡し跡広場」に行くと醤油の煮詰まった良い香りが漂ってきます。 ここが佃煮発祥の地といわれている場所です。 佃島の漁民が、売り物にならない雑魚などを塩や醤油に煮込み、保存食としていたものが、「佃煮」の由来です。 やがて、江戸市中で売られるようになり、安価で日持ちもすることから、全国へと拡がっていきました。
老舗の佃煮屋・天安
老舗の佃煮屋・佃源田中屋
やがて、佃煮は材料も増え、佃島以外でも作られるようになり、現在では材料や産地を問わず、このような食料品を総称して「佃煮」と呼ぶようになりました。 広場の周りに「佃源田中屋」「天安」「丸久」の3軒の老舗の佃煮屋があります。 それぞれの創業は天保14年(1843年)、天保8年(1837年)、安政6年(1859年)となっており、「天安」が一番古いようですが、いずれにしても老舗です。
お店にはいると、小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類など数多くの佃煮が並べられており、100グラム単位で値段が付いています。 いずれの店も対面量り売りとなっています。 都心の老舗と違って近所のおばさん風の店員さんが古き良き時代を思い起こさせます。
老舗の佃煮屋・丸久
老舗の佃煮屋が並ぶ佃渡し跡広場前
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