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横浜散歩No4:馬車道散策 (H22.9.22〜9.25)


馬車道 アーケードにもガス灯と馬のマークが



馬車道 右方向がJR根岸線関内駅

横浜のJR根岸線の関内駅北口を出てそのまま線路に沿って北西方向に100m程進むと、交差点から右方向にレンガ敷きの洒落た雰囲気の通りが延びています。

この通りが「馬車道」です。

「馬車道」は道路名及び地域名で、馬車道周辺地域も「馬車道」と呼んでいます。

「馬車道」という地名はありません。


馬車道は交差点の左側にある「吉田橋」から港の方向に真っ直ぐ延びている道路で、「本町4丁目」の交差点までの約600mです。

「吉田橋」より先は「伊勢佐木町通り(イセザキモール)」で、「本町4丁目」から海側が「万国橋通り」となっています。

馬車道はさまざまな物事の日本発祥の舞台となった場所として知られています。

街路は美しく整備されており、ガイドブックを片手にさまざまな記念碑を訪ね歩くのも楽しいかと思います。

馬車道には記念碑などの案内板が各ブロックに設置されており、現在位置が明示されていますので、ガイドブックがなくても案内板を見ながら散策することができます。


馬車道の案内板



吉田橋 電車はJR根岸線で関内駅は右手です



吉田橋関門跡

安政5年(1858年)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、翌年6月に横浜を開港しました。

横浜の開港当時、幕府は開港場の取り締まりのために開港場一帯を川と掘り割りで周囲と隔て、出入りする橋には関門を設けていました。

この関門の内側を「関内」と呼び、外側を「関外」と呼びましたが、これが現在のJR根岸線「関内」駅の名称の由来となっています。


慶応2年(1866年)に関内地区が大火に見舞われ街の大部分が焼失しました。

この火災からの復興計画で決定された3本の幅60フィートの道路の一つが馬車道です。

道路の幅は「馬車の通れる道を」との外国人たちからの要望を受け入れたもので、外国人はこの道を馬車で往来しており、当時の人々にその姿は珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになりました。


吉田橋



馬車道のガス灯


馬車道


横浜開港に合わせて、陸路の東海道から開港場への連絡路として「横浜道」が建設されましたが、横浜道と開港場を結ぶ橋が吉田橋で、関門が設置されていました。

慶応3年(1867年)に開通した馬車道は、関内と関外を繋ぐ吉田橋から海岸へ至る道路として大いに賑わい、発展したとのことです。


記念碑を訪ねながら馬車道を散策しました。

吉田橋の傍に「鉄の橋」と「ブラントンと横浜」の記念碑があります。

明治2年(1969年)に英国の土木技師ブラントンによって架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅6mの日本最初のトラスト橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大人気を集めたとのことです。

現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。


「鉄の橋」と「ブラントンと横浜」の記念碑



鉄の橋

また、明治元年(1868年)に政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡を残しています。



馬車道の散策路


吉田橋から馬車道を港の方向に進んだ最初のブロックに、「新風」「トラファルガー広場のガス灯」「近代街路樹発祥の地記念碑」「海辺の少女」があります。

このブロックはレンガ敷きの歩道が広がって小さな公園のようになっており、休憩用の椅子なども置かれています。

また、街灯や歩道にはさまざまな形で「馬車道」に関する表示があります。


馬車道



新風


馬車道


「新風」は小田襄の作品で、横浜ロータリークラブ創立50年記念として1977年に建てられたものです。


1805年、ナポレオンの率いるフランス・スペイン艦隊を、スペインのトラファルガー沖で撃沈して英国を救った英雄、イギリス海軍ネルソン提督の活躍と栄誉を称して作られたのがトラファルガー広場です。

高さ55mもの円柱(コラム)から町を見守るネルソン提督の像の台座には、彼の活躍した4つの海戦場所(トラファルガー・ナイル川・セントビンセント岬、コペンハーゲン沖)が描かれています。

このガス灯は、ロンドンの中心的存在であるトラファルガー広場のガス灯と同じものです。

明治5年(1872年)日本最初のガス灯が馬車道に灯されたことを記念して、設置されたものです。


トラファルガー広場のガス灯



近代街路樹発祥之地


「海辺の少女」は案内板ではこのブロックの一番吉田橋よりになっていますが、歩道の左側にあるビルの「馬車道」交差点側の隅にひっそりと建っていました。

「近代街路樹発祥之地」の左方向で、2階のファミリーレストランへの入口の傍です。

「海辺の少女」はウェナンツォ・クトチェッティの作品です。

台座とともに移動可能な作品のようで、何らかの理由でこの場所に移動したのかもしれません。

トラファルガーのガス灯の近くに「近代街路樹発祥之地」の碑が建っています。

慶応3年(1867年)に通りに沿って柳や松を植えたことを記念するものです。

昭和54年(1979年)に、開港120周年記念事業の一つとして、横浜市が建てたものですが、通りに沿って樹木を植える「街路樹」は日本国内で以前から行われており、何をもって「近代街路樹」とするのかは定かでないようです。



海辺の少女



勝烈庵の前にある「ハマの街灯点灯の地」の石碑

「馬車道」の交差点を横切ると幅の狭い馬車道となります。

車道は狭いため一方通行ですが、歩道はゆっくり散策できる道幅があります。

最初の交差点を左折して50m程進んだ右手が、老舗レストラン「勝烈庵」の馬車道総本店です。

今年が創業84周年です。


「勝烈庵」の入口の右手に「ハマの街灯点灯の地」の石碑があり、その傍には街灯が建っています。

明治19年(1886年)に日本最初の電力会社・東京電灯会社が開業しましたが、その3年後の明治22年(1889年)に横浜には横浜共同電灯会社が設立されました。

明治23年(1890年)に横浜共同電灯会社が中区常盤町に火力発電所を建設、同年10月1日に横浜市内約700の電灯と街灯が一斉に点灯されました。

これが神奈川県で初めて電力供給が行われたもので、それを記念して建てられたのがこの碑です。


山下公園の門灯


「ハマの街灯点灯の地」の石碑


石碑には次のように書かれています。

ハマの街灯点火の地(常盤町)

明治23年10月1日、初めて横浜市内700の電灯と街灯が一斉につきました。この街灯は山下公園の門灯でした。同公園に埋もれていたのを、電力の生みの親 横浜共同電灯株式会社跡の常盤町に復活させました。古き良き時代をしのんで頂けたら・・・・と存じます。

勝烈庵主 昭和40年6月


勝烈庵の傍の交差点に「六道の辻通り」の石碑があります。

六道の辻とは何だろうと思い調べたところ、6つの道の辻ではなくて仏教用語のようです。

六道は仏教用語で、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の6つの道のことで、六道の辻は現世とあの世の境目とのことです。


六道の辻通り 右が勝烈庵 左前方が馬車道十番館



六道の辻通り


六道詣り(六道さん)は盂蘭盆に先立って8月7〜10日に行われる祖先崇拝の宗教行事で、お盆に帰ってくる祖霊をお迎えするのだそうです。


現在でも大変な賑わいのようです。

馬車道と並行している六道の辻通りの由来は不明ですが、仏教の六道に関連しているのではないかと思われます。

「六道の辻」で有名なのは京都の古刹「六道珍皇寺」で、門前には「六道の辻」の石碑が置かれています。

昔、平安京で人が死んで鳥辺野というところに遺体を納めに行くときは必ずこのお寺の前を通ったそうです。

鳥辺野を葬送地と定めた学者にして歌人の小野篁は、冥界へ行くときこの寺の境内にある井戸を通って下っていったと伝えられています。


馬車道十番館



馬車道十番館



馬車道十番館

勝烈庵から六道の辻通りの海岸方向30m程度のところに老舗のフレンチレストラン「馬車道十番館」があります。

横浜の関内には開港当時の面影を物語る数多くの建造物や資料が残されていましたが、関東大震災や戦災でそのほとんどが失われてしまいました。

馬車道十番館は、そのころの建築様式をそのままに、明治の西洋館を再現したものです。



馬車道十番館


馬車道十番館の前に古い電話バックスと牛馬飲水槽が置かれています。

馬車道十番館の前に置かれている牛馬引水槽は、大正6年(1917年)当時の横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬車協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたものです。


馬車道十番館の公衆電話



牛馬飲水

牛馬飲水槽はこのほかに、中区の生糸検査所(馬車道)、西区高島町駅前、久保山のガードそばに設置して、牛馬の途中休憩所にしました。

荷馬車協会には三千頭の牛馬がいて、夏には洒落た麦わら帽子をつけて、気取った足取りで荷物を運送していたとのことです。



馬車道


馬車道十番館から馬車道に戻り、海方向に少し進んだ右側の歩道に「太陽の母子像」が置かれています。

明治2年(1869年)5月9日に町田房蔵が「氷水屋」で、日本で初めてアイスクリームを販売したことを記念するものです。アイスクリーム発祥の地です。

当時は「あいすくりん」と呼ばれていましたが、値段は一人前の値段が2分(現在の価格で約8000円)と極めて高価で、当所は外国人にしか売れなかったそうです。


太陽の母子像



関内ホール

この日本初のアイスクリーム製造販売を記念して、5月9日を日本アイスクリーム協会は「アイスクリームの日」と定めており、地元商店街はこの日の来訪者に「馬車道あいす」 を無料配布しています。

この数年後から洋菓子店やレストランでのアイスクリーム販売が始まり、鹿鳴館時代には外国人からほめられるほどのアイスクリームがつくられるようになりましたが、工業的に生産されるようになるのは、大正10年以降のことです。



平和U


「太陽の母子像」から海岸方向に向かって進むと、2つ目のブロックに関内ホールがあります。


この関内ホールの傍に「平和T」「平和U」「ニケとニコラ」「英国国会議事堂のガス灯」「日本初期のガス灯の記念碑」があります。


平和T



ニケとニコラ

「平和T」は関内ホールの玄関前に、「平和U」は右手50m程の関内ホール裏玄関に置かれています。「関内ホール前」の信号の傍です。

いずれも作者はマルタ・バンです。

「平和T」から右手に20m程進んだ関内ホール脇の歩道に「ニケとニコラ」の像が置かれています。

作者は朝倉響子です。


関内ホールの玄関の前の歩道に「英国国会議事堂のガス灯」があります。

テムズ川のほとりにそびえる高さ96mの時計塔ビッグ・ベンがシンボルとして立つことで有名な英国国会議事堂は、正式名称をウエストミンスター宮殿といい、1065年エドワード国王によって建設されました。

当時の建物は1834年の火災で焼失しましたが、1852年に国会議事堂として再建、ビッグ・ベンもその時に建てられています。

馬車道にあるガス灯は、この建物の北西部に立つガス灯と同じものです。

明治5年(1872年)日本最初のガス灯が馬車道に灯されたことを記念して設置されたものです。


英国国会議事堂のガス灯



日本最初のガス灯を記念するプレート(手前)と当時の馬車道の様子を描いたレリーフ



日本ガス事業発祥の地

「英国国会議事堂のガス灯」から少し海岸方向に進むと、関内ホールの前に日本最初のガス灯を記念するプレートがあり、その傍らに当時のガス灯を復元したガス灯が立ち、関内ホールの壁面には当時の馬車道の様子を描いたレリーフがあります。

これらは関内ホールが新築された時に設置されたとのことです。

明治3年(1870年)、フランス人技師プレグランを招いて高島嘉右衛門が中区花咲町にガス会社を設立、明治5年(1872年)10月31日に神奈川県庁付近と、大江橋から馬車道、本町通りまでの約600mの街路に、ガス街灯十数基を点灯しました。

これが日本におけるガス事業の始まりです。


当時のガス灯の火は、はんてん姿の点灯方がひとつひとつ手作業で点灯していったものだとのことです。

風が吹けば簡単に消えてしまうようなものだったようですが、その火は日本近代産業の幕開けと「文明開化」をまさに象徴していたものといえます。

ガス灯事業の始まりを記念して、昭和61年(1986年)に馬車道商店街協同組合が「日本で最初のガス灯」の碑を建てました。

昭和47年(1972年)に日本ガス協会が、10月31日をガス記念の日としました。

また、昭和59年(1984年)には、東京ガスが桜木町駅近くの花咲町3丁目に「日本ガス事業発祥の地」の碑を建てています。


日本ガス事業発祥の地



馬車道の舗道

事業としてではないものには前例があり、鹿児島県鹿児島市の庭園・仙巌園には、安政4年(1857年)に日本で初めてガスの炎を灯した石灯籠である「日本初のガス灯」があります。

また、明治4年(1871年)に大阪市の造幣局周辺一帯で、日本最初の街路灯となるガス灯が設置されています。


「日本で最初のガス灯」の碑から海岸方向に進んだ2つ目のブロックに「浜の時守」があります。

「浜の時守」は児玉慎憲の作品で高さ6mのステンレスのモニュメントです。

一番上に時計が付いています。
昭和63年(1988年)の作品です。


浜の時守



下岡蓮杖顕彰碑 最上部にカメラが

「浜の時守」の一つ先のブロックに「下岡蓮杖顕彰碑」があります。

下岡蓮杖は長崎の上野彦馬とともに日本の商業写真師の草分けとして知られていますが、この碑は文久2年(1862年)に日本で初めての写真館が弁天町に作られたことから、彼の功績を記念してここに設置されているものです。

出身地の伊豆下田には下岡の功績を讃えた「下岡蓮杖翁の碑」が建てられており、また同じく下田の蓮杖写真記念館に下岡の遺品などが展示されています。


「下岡蓮杖顕彰碑」の斜め向かいに「日本興亜馬車道ビル」があります。

八大財閥の一つ川崎財閥の中核銀行である川崎銀行横浜支店(日本興亜馬車道ビル)は矢部又吉の設計により大正11年(1919年)に建てられました。

当初の建物は、ネオルネッサンス形式の石造建築です。

各階の窓には異なったデザインを配し、3階部分には三角破風をのせています。


日本興亜馬車道ビル



馬車道

石の積み上げ方にも変化をもたせ、凝った装飾はなくシンプルにまとめられています。

この建物は昭和61年に取り壊される運命にありましたが、多くの人々の努力と施主の英断により歴史的建築物の保存・再生の先駆けとして、平成元年に外壁を保存した姿に生まれ代わりました。


現在は川崎財閥の流れを汲む日本興亜損害保険のビルとなっています。

横浜市の歴史的建造物認定の第1号です。



神奈川県立歴史博物館


その隣にあるのが「神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)」です。

官庁建築の中心的存在である妻木頼黄の設計で、横浜に縁の深い遠藤於菟が現場監督で明治37年(1904年)に横浜正金銀行本店として建設されました。

横浜正金銀行(東京銀行の前身)は外国貿易関係を専門とする特殊銀行で、日本銀行と並ぶ国内の最重要金融機関でした。

大正9年(1917年)には、世界三大為替銀行の一つに数えられるまでになっています。


神奈川県立歴史博物館



神奈川県立歴史博物館

関東大震災で屋上ドームを焼失しましたが、東京銀行から譲り受けた神奈川県が昭和42年にドームを復元し、神奈川県立博物館として開館しました。

建物は丸窓・ドルフィンの装飾が施されたドーム、正面及び両側隅部には大きなペディメント、1階から3階まで貫き外壁を等間隔に飾っている大オーダーなどが特徴でドイツ・ネオバロック様式と呼ばれています。

横浜で唯一の石造建築で、国の重要文化財に認定されています。


県立歴史博物館の前に「シェフィールドパークのガス灯」があります。

ロンドンの南の町、ブラントンへ向かっていく途中にあるサセックス州のシェフィールドパークは、森や林で囲まれた緑豊かな田園地帯にあり、多くのイギリス人から憩いの場所として愛されています。

古い昔からのランタンと、円柱からなるガス灯は、このシェフィールドパーク内に立っているものと同じガス灯で、明治5年(1872年)日本最初のガス灯が馬車道に灯されたことを記念して設置されたものです。


シェフィールドパークのガス灯



牛馬飲水槽

県立歴史博物館の向かい側に「牛馬飲水槽」があります。

明治2年(1869年)に、日本初の乗合馬車が吉田橋・東京間を走ったとのことです。

2頭だての6人乗りで、東京まで約4時間かかったとのことです。

道路脇には、当時の交通手段であった馬や牛のための給水場として、牛馬飲水槽が設けられていました。ここで馬や牛は水を飲み、休憩を取ったのです。



馬車道大津ビル(手前)と東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)


県立歴史博物館の次のブロックに「馬車道大津ビル」「東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)」があります。

「馬車道大津ビル」は、シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ独特のデザインをもつ、昭和初期の中規模オフィスビルです。


馬車道大津ビルと東京芸術大学



東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)

隣接する富士銀行や歴史博物館等とともに、馬車道の歴史的景観を形成しているとの理由で横浜市歴史的建造物に認定されました。

地下には写真展や絵画展、コンサートなどが開催できる「馬車道大津ギャラリー」があります。


「東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)」は、昭和4年(1929年)安田銀行(富士銀行の前身)の横浜支店として建てられました。

設計は安田銀行の営繕課です。

安田銀行は四大財閥の一つ安田財閥のメイン銀行で、建設当時は日本で最大の銀行でした。

昭和23年(1748年)の財閥解体により富士銀行横浜支店に改称しました。


東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)



馬車道の舗道

平成14年に富士銀行の統合に伴い、土地を横浜市が買い取り(建物は寄付)文化芸術創造都市づくりを推進するため、映像文化施設を整備し、その後、東京芸術大学に貸与されました。

外壁はルスティカ積みで、正面ファサードにトスカナ式大オーダーの円柱、その間には半円形の窓が見受けられます。


「東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)」の前の歩道に「ビクトリア・タワーのガス灯」があります。

ビッグ・ベンとともに、英国国会議事堂のシンボルとして有名なビクトリア・タワー。

1843年の火災で焼失したウエストミンスター宮殿を再建させる際、建築家のオーガスタ・ビュージンは、ゴシック建築のロマンチックな風貌に、非対称なデザインをもつ力強さを活かそうと、南端の塔、このビクトリア・タワーを大きく設計したのだといわれています。

このガス灯は、ビクトリア・タワー周辺に立つガス灯と同じものです。明治5年(1872年)日本最初のガス灯が馬車道に灯されたのを記念して設置されたものです。


ビクトリア・タワーのガス灯



馬の像と本町4丁目交差点


馬車道は、「馬の像」や「東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)」のある「本町4丁目」の交差点までです。

交差点を左右に走っている広い道路が「本町通り」、交差点から海岸方向に向かっているのが「万国橋通り」です。

「東京芸術大学(旧富士銀行横浜支店)」の向かい側に「馬の像」があります。

「馬の像」は「海辺の少女」と同じウェナンツォ・クトチェッティの作品です。直接的な今にも走り出しそうな精悍な姿です。



馬の像とランドマークタワー



横浜アイランドタワー


このビルの低層部分は昭和4年(1929年)竣工の旧第一銀行横浜支店を移築・復元したものです。

横浜市認定歴史的建造物です。

「本町4丁目」の交差点を左折して50m程進むと、本町通りは桜木町駅に進む道路とみなとみらいに進む道路に分岐され、2つの道路に挟まれた三角州のような場所に、少し形の変わったビルが建っています。

高さ119mの横浜アイランドタワーです。


横浜アイランドタワー



日刊新聞発祥の地

このビルの西側広場に「日刊新聞発祥の地」の石碑が建っています。

日本で最初に発行された新聞は、元治元年(1864年)にジョセフ彦が横浜で発刊した「海外新聞」とされています。

これは月刊の英字新聞で、最初は手書き、後に活版印刷になりました。

中華街の関帝廟の近くに「日本国新聞発祥之地」の碑があります。


日本語による日刊新聞は、明治3年(1870年)に発刊された「横浜毎日新聞」です。

この新聞は西洋紙の両面に鉛の活字を使って活版印刷したものでした。

「横浜毎日新聞」はその後明治12年(1879年)に東京に移り「東京横浜毎日新聞」という名前になり、さらに「毎日新聞」「東京毎日新聞」と紙名を変えましたが、昭和16年(1941年)に廃刊になりました。現在の毎日新聞とは無関係です。

「日刊新聞発祥の地」の碑は、かつて生糸検査所(現・横浜第2合同庁舎)前にありましたが、生糸検査所が合同庁舎に建て替えられた時に撤去され、同所の駐車場に保管されていました。

横浜第2合同庁舎敷地内に復元を予定していたところ、本来の創刊の場所が本町6丁目付近であることが判明し、新しく判明した「横浜毎日新聞」の発行所があった場所に再建されたものです。


日刊新聞発祥の地



横浜第2合同庁舎(旧横浜生糸検査所)



横浜第2合同庁舎(旧横浜生糸検査所)

本町4丁目の交差点を渡り「万国橋通り」を海岸方向に進んだ左側の最初の煉瓦色の建物が「横浜第2合同庁舎(旧横浜生糸検査所)」です。

日本有数の貿易港である横浜港にとって、最も重要な役割を果たしていたのが生糸です。

関東大震災で壊滅的な被害を被った横浜にとって、貿易の復興は緊急の課題でした。

大正15年(1926年)遠藤於菟の設計により、生糸検査所(通称:キーケン)は建てられました。関東大震災復興期の建築としては最大規模のものです。


現在の横浜第2合同庁舎は、耐震耐久性の問題から旧横浜生糸検査所を平成2年に取り壊し、新しいビルの低層部分として創建当時の建物の新築復元させたものです。

建物正面上部に飾られた紋章は、蚕が孵化した巨大な蛾を表わしています。

横浜市認定歴史的建造物です。


横浜第2合同庁舎と本町通り



北仲ブリック(旧横浜生糸検査所倉庫事務室)

本町通り沿いの横浜第2合同庁舎の隣にあるのが「北仲ブリック(旧横浜生糸検査所倉庫事務室)」です。

この建物は遠藤於菟の設計により大正15年(1923年)に横浜生糸検査所の倉庫事務所として建てられました。その後、帝蚕倉庫本社事務所、北仲ブリックとして活用されてきています。


現在、この地区は再開発中ですが、この建物は現状のまま保存され、「アジアデザインマネージメントセンター(仮称)」として活用される予定とのことです。


北仲ブリック(旧横浜生糸検査所倉庫事務室)



北仲ブリックと帝蚕倉庫

北仲ブリックの傍に「帝蚕倉庫」があります。

帝蚕倉庫は、近代の横浜貿易の支柱だった生糸貿易を支えるために、大正15年(1926年)に国の援助を受けて建設されました。

生糸のほか、コーヒー豆やナッツ、洋酒なども保管されてきました。

当初は4棟ありましたが、現在は1棟しか残っていません。


この倉庫も再開発に伴い解体される予定でしたが、現状のまま保存されるようです。

2010年9月に倉庫解体時に確保されていたレンガ30個が市民に有料配布されました。

風来坊も応募しましたが、残念ながら抽選ではずれましたので、レンガを紹介することはできません。
    

       


帝蚕倉庫



帝蚕倉庫

アクセス(馬車道まで)

JR根岸線関内駅北口から徒歩3分

横浜市営地下鉄関内駅8番出口、9番出口から徒歩0分

みなとみらい線馬車道駅馬車道口から徒歩0分


        風来坊


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