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東京散歩No4:向島散策その2 (H22.10.5)


弘福寺本堂(工事中)



弘福寺山門


長命寺の隣が弘福寺です。

弘福寺の山門は見番通りに面しており、長命寺から「隅田区少年野球場前」まで戻り見番通りを進む必要があります。

弘福寺は、黄檗(おうばく)宗大本山、宇治の黄檗山万福寺の末寺で、同宗の名僧鉄牛和尚によって延宝2年(1673年)に創建されました。



関東大震災で罹災しましたが、昭和8年(1933年)に再建されました。

黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られており、弘福寺に布袋尊の御像が安置されているのもその影響によるものです。

本堂や山門は唐風建築であり、建物にも中国風の特徴が見られます。


布袋尊



爺婆尊の石像


境内右手の小祠に、咳の爺婆尊の石像を祀ってあります。

この像は寛永年問(1624年〜44年)に、風外禅師が真鶴山中の洞穴で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたみ刻んだものと伝えられます。

口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折りには、煎り豆と番茶を添えてその礼に供養するという風習が伝わっています。


弘福寺は開山当時より江戸中にきこえた名寺のひとつです。

江戸時代は鳥取藩池田氏の菩提寺でした。

境内には、池田冠山の墓碑など著名な墓も多くあります。

池田冠山は、江戸末期の因幡若桜五代目藩主で儒学者、地理物理学者としても有名です。

著作に「浅草寺志」「墨水源流」などがあります。


池田冠山の墓碑



料亭・美家古(みやこ)


弘福寺の前の「見番通り」は、この通りの中ほどに置屋の見番所があることから名付けられたとのことです。


見番通りの北側や墨堤通りの東側には向島花街と呼ばれる一角があり、現在も20近い料亭があります。

弘福寺の西隣の「美家古(みやこ)」もその一つです。



見番通りをさらに100m程進んだところに、向嶋墨堤組合があります。


料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋・花街の統括管理などが主な業務です。

また、稽古や新人の育成などにも当たっており、伝統文化の継承にも取り組んでいます。

現在でも120名を越える芸妓衆が登録されているとのことです。


向嶋墨堤組合



桜橋



桜橋


「美家古」を右手に見て進み、最初の信号(向嶋墨堤組合の手前になります)を右折して前方にある石段を登ると、隅田川堤防の上に出ることができます。


その先に「桜橋」があります。

桜橋は、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用の橋です。


桜橋は隅田川両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持っています。

形状は平面のX字型の特異な形をしている美しい橋で、周辺との景観を考慮して色彩や素材に工夫が図られています。

花見のシーズンには両岸の桜を楽しむために多くの人がこの橋を渡ります。

この橋の上から眺める隅田川の桜は絶景ですが、今日では東京スカイツリーを身近に眺めることのできるスポットでもあります。


桜橋



三囲神社(三圍神社)



三囲神社


桜橋から河岸の散策路に沿って下流に進むと隅田公園ですが、今回は石段を下りて見番通りに戻ります。

見番通りを右に300m程進んだところが三囲(みめぐり)神社(正式は三圍神社)です。

祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)ですが、創立年代は不詳です。



文和年間(1352年〜1356年)の頃、近江三井寺の僧源慶が東国を巡錫中、墨田川牛島のほとりの弘法大師建立になる、荒れはてた小堂に立ち寄った際、その床下より現れた壷をあけると、その中より忽然と白狐が現れ、壷の中の宇迦之御魂命の神像のまわりを、三度めぐっていずこともなく消え去ったので、爾今この社を「みめぐり」(三囲)と呼ばれるようになったと伝えられています。


三囲神社のコンコン



雨乞いの碑


雨乞いの碑


また元禄6年の旱魃の際に、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、俳人宝井其角が

夕立や田を三めぐりの神ならば

と雨乞いの句を詠んで、この社に献じると、翌日早速雨が降ったといわれております。




このことからこの神社の名は江戸にひろまりました。

京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神と崇め、三越の本支店に分霊を奉祀しました。


こうした経緯から三囲神社には三井家由来の物が多くあります。


三つ穴灯籠

三囲神社の灯籠の火袋には三つの穴があいています。

三つ穴灯籠は三郷市の丹後神社にもあるとのことです。


三つ穴灯籠



ライオンの像


神社境内の狛犬のそばにライオン像が置かれています。

三越百貨店入口に置かれているものと同じ像で、2009年に三越から奉納されたものです。

かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、神社からの申し出により、三越と強い縁を持っていることから実現したとのことです。



三囲神社の別殿には、大國、恵比寿の二神が奉安されています。


もとは三井の越後屋(今の三越)に祀られていたものです。

大國神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多いとのことです。

大國、恵比寿 二神



三角鳥居(三柱鳥居)


境内の奧に三角鳥居があります。

この石造りの三柱鳥居は「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と境内に表示されており、三井家から移されたもので、原型は京都太秦木嶋神社にあります。



三角鳥居の対には、三本足の柱を持つ屋根ついた手水鉢が置かれています。


また、花柳界の地である向島にふさわしく、境内には江戸時代から現代に至るまでの文人、役者やの句碑や歌碑が数多くあります。

また、向島という土地柄か料理関連の包丁塚もあります。


手水鉢



顕名霊社


顕名霊社は三井家祖先を奉ったものです。

明治7年に建立され、平成7年に当地に移築されています。

川端玉章の下書きに彫刻が社周辺に施されています。



三囲神社から見番通りを西方向に100m程進んだ右手が、「すみだ郷土文化資料館」です。


すみだ郷土文化資料館では、「ふるさととの出会い、ときめきへの旅」をスローガンに、墨田区の歴史・伝統文化を紹介しています。

館内は撮影禁止です。

 すみだ郷土文化資料館


すみだ郷土文化資料館



隅田公園からのスカイツリー



隅田公園からのスカイツリー


すみだ郷土文化資料館から見番通りをさらに200m程進むと「言問橋東」交差点です。

交差点を渡って右に進むと隅田公園です。

隅田公園は隅田川沿いにある公園で、右岸の台東区浅草、花川戸、左岸の墨田区向島にまたがる公園です。

関東大震災の避難場所が少なく、被害を大きくしたという反省から、東京市内に数ヶ所の火除地を設置する計画が進められ、その一環として名勝史跡の墨堤を復興整備して隅田公園が設置されました。

大正14年6月着工、昭和6年3月完成という6年近くをかけた大工事で、美しい日本庭園をもつ旧水戸藩下屋敷を含み、桜並木も整然とした近代的な公園です。



牛島神社


隅田公園の「言問橋東交差点」の近くに牛島神社があります。

本殿前に狛犬の代わりに狛牛があるのが特長です。

神社の名前は、両国・向島の本所一帯が天武天皇の時代(701年〜764年)に国営牧場が設けられ牛嶋といわれていたことに由来しています。

創建は、貞観年間(859年〜877年)に慈覚大師が須佐之男命を郷土の守護神として迎えたのが始まりといわれています。


牛島神社



牛島神社

その後平安末期に、源頼朝が房州千葉から挙兵して隅田川を渡ろうとしましたが、豪雨直後で水位が高く渡ることができなかったときに、千葉胤常が近くにあった牛島神社に祈願したところ、無事渡ることができたという。

この時の功徳に感謝して、頼朝は神社に多くの土地を寄進したといわれています。

その後も北条氏や江戸時代には江戸城の鬼門守護の社として幕府から寄進を受け、本所地区の総鎮守にもなっていました。



狛牛


狛牛


牛島神社は「牛御前社」とも呼ばれていますが、これは天文年間(1532年〜52年)からです。

境内には「撫で牛」があり、体の悪い部分を撫で、次に牛の同じ部分を撫でると、病気が治るといわれています。

体だけでなく、心の病にも効き目があり、また子供が産まれた時は「撫で牛」に涎かけを奉納し、その涎かけを子供にかけると健康に育つともいわれています。


撫で牛



牛島神社からのスカイツリー


昭和7年,関東大震災後の隅田公園の建設により,桜橋近くの隅田川東岸(墨堤常夜燈のある場所)にあったのを公園の北側に移されました。

昭和20年の東京大空襲により神楽殿は焼けましたが,本堂はじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事で,昭和7年に移転して以来のものです。

正面の鳥居は珍しい三輪鳥居です。



まくらばし茶屋


隅田公園に戻り墨堤通りに添って公園を西方向に進み、公園を出たところが「枕橋」です。

東京スカイツリーの撮影スポットのひとつです。

橋の傍らに「まくらばし茶屋」があります。


枕橋からのスカイツリー



勝海舟銅像


勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的活動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。

西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城を取り決めた勝海舟は、江戸を戦禍から救いました。


枕橋を渡って「墨田区役所前」の信号で墨堤通りを横切って、前方の緩やかな坂を上ったところに勝海舟の銅像があります。


勝海舟は文政6年(1823年)江戸本所滝沢町で生まれ、明治32年(1899年)赤坂の氷川邸で逝去しました。


勝海舟銅像



勝海舟銅像前から浅草を望む


この勝海舟の銅像は、勝海舟生誕180年を記念して「勝海舟の銅像を建てる会」が募金活動を経て2003年7月に建立し、7月21日の海の日に墨田区に寄贈されたものです。


また、すぐ隣にある墨田区役所内1階には、勝海舟関連の展示コーナーがあり、その功績を詳しく知ることができます。



吾妻橋



勝海舟の銅像から吾妻橋を渡ると浅草で、今回の散策の終着点です。

吾妻橋の架けられている場所は、もとは「竹町の渡し」のあったところで、安永3年(1774年)に住民によって有料の橋が架けられ、大川橋と呼ばれていましたが、後に吾妻橋と通称されました。


吾妻橋 前方が浅草



吾妻橋からのスカイツリー


吾妻橋の吾妻の名は、古来、東国・関東地方を総称するアズマの語に由来しています。

また立花の吾嬬神社にもゆかりを持っています。

明治9年(1876年)には、吾妻橋を正式名称とし、その後明治20年(1887年)に鉄製のトラス橋が完成しました。

現在の橋は、昭和6年(1931年)に架け替えられたものです。



吾妻橋とスカイツリー





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     風来坊


浅草1丁目1番地1号 デンキブランの神谷バー


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