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東京散歩No4:向島散策その1 (H22.10.5)


向島百花園



向島百花園


江戸の頃より花の名所と謳われ、夕暮れともなると料亭に明かりが灯る情緒豊かな向島。

永井荷風の「墨東綺譚」や吉行淳之介の「原色の街」の舞台となった花街の面影は殆ど残っていませんが、ところどころに残る昭和の家並みや篤い信仰を支える古社寺、伝統の和菓子など、下町らしいたたずまいは健在で、桜や百花園の花めぐりとともに大きな魅力となっています。



向島散策のコースは次のとおりです。

東武伊勢崎線東向島駅→向島百花園→白髭神社→子育地蔵堂→地蔵坂通り→幸田露伴住居跡→鳩の街通り商店街→羽子板資料館→江戸木箸大黒屋→秋葉神社→隅田公園少年野球場→言問団子→墨堤常夜燈→墨堤植桜之碑→長命寺桜もち→長命寺→弘福寺→桜橋→三囲神社→すみだ郷土文化資料館→牛島神社→隅田公園→勝海舟像→浅草駅


向島百花園



向島百花園


東武伊勢崎線東向島駅の改札口を出て右にUターンすると、右手が東武博物館です。


東武博物館の先を右折し道なりに進み、「百花園入口」の交差点を渡ってそのまま進むと、右手に向島百花園の緑が広がってきます。

そのまま塀に沿って進むと右手が向島百花園の入口です。



向島百花園のハギのトンネル



向島百花園は江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804年〜1830年)に、骨董商を営んでいた佐原鞠塢が旗本の屋敷を買い取り、交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、花の咲く草花鑑賞を中心とした花園を造り、開園しました。

開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。


春もやや けしきととのふ 月と梅  芭蕉



鳥の名の 都となりぬ 梅屋敷  益賀


その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。


「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。

唯一現代に残る江戸時代の花園です。

細部は「向島百花園の萩と秋の花」でレポートしております。



江戸の昔から、谷中と並んで向島の隅田川七福神は有名で、年の初めの七福神巡りが恒例の行事となっています。


百花園には、隅田川七福神の巡りのうち福禄寿があります。

百花園の福禄寿は、開園した佐原鞠塢が「福禄寿像」を愛蔵していたことに由来するようです。


福禄寿



ミヤギノハギ


園内には芭蕉の句碑を含め、合計29の句碑、石柱が園内随所に建ち、庭造りに力を合わせた文人墨客達の足跡をたどることができます。

また、向島百花園の初秋の名物に萩のトンネルがあります。

萩を竹の棚に添わせた全長30mの花のトンネルで、例年の見頃は9月下旬ですが、今年は開花が遅く10月になってやっと見頃を迎えました。



白鬚神社



向島百花園を出て、右手に200m程進んだところに白鬚神社があります。


白鬚神社は天歴5年(951年)創建された、向島では最も古い由緒ある神社の一つです。社伝に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の分霊をここに祭ったと記録されています。

現在の社殿は元治元年(1864年)の造営です。


白鬚神社



白鬚大明神

江戸時代の町人文化が全盛の時期、百花園に集まって風流を楽しんでいた文人たちが、隅田川の東岸で初春の七福神詣を始めようとしたとき、どうしても近隣の神社に寿老人が見つからない。

そこで機智を働かせて、往時の寺島村の鎮守の白鬚大明神は、白いお鬚の御老体であろうから、まさに寿老神としてたたえるのにふさわしいということになり、めでたく七福神が誕生しました。

寿老神は、人々の安全と健康とを守る長寿の神として崇敬されています。


境内には多くの石碑があり、社殿のすぐ左手には加藤千蔭筆の白鬚神社縁起碑、参道脇にまとめられた碑には、墨多三絶の碑などがあります。

また、幕末の幕臣で、外国奉行だった岩瀬鴎所の供養碑もあります。

日米通商条約等で活躍した人ですが、将軍の跡継ぎ問題のため安政の大獄で退けられ、向島で晩年を過しました。


永井荷風の母方の祖父で、明治の顕官として活控した鷲津毅堂の碑もあります。


白鬚神社境内の石碑



白髭神社前の旧墨堤通り


白髭神社のすぐ傍が墨堤通りです。

そのまま墨堤通りを200m程進むと左手に子育地蔵堂があります。

白髭神社から子育地蔵堂の間は、墨堤通りとほぼ並行して湾曲して道路があります。

この道路が「旧墨堤の道」で、今は姿を消してしまった旧墨堤通りの名残です。



多くの歌に詠まれ浮世絵の題材にもなった墨堤の桜は、徳川家綱の時代の寛文年間(1661年〜1673年)に、治水のために植えられました。

当初は徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現在の東白鬚公園辺り)から白髭神社の北側辺りでしたが、吉宗の時代に護岸強化と憩いの場所つくりのため言問橋辺りまで桜並木を延ばしたことから、江戸を代表する桜の名所となりました。


子育地蔵堂から白鬚神社に続く旧墨堤通り



子育地蔵堂


関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。

現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、白鬚神社から子育地蔵堂までの通りと「墨堤植桜之碑」近くの湾曲部の2ヶ所だけとなっています。



子育地蔵堂に祭られている子育地蔵は、文化年間(1804年〜1817年)に隅田川の堤防修築工事の際、土中から発見されたと伝えられています。


初めは村の子供達が、神輿代わりにこの地蔵を担いでいたとのことです。

ところがこの地に古くから住む植木屋平作家の雇人夫婦が殺害されましたが、この地蔵が子供の口を借りて犯人を告げ、たちまち犯人を捕まえることができたそうです。


子育地蔵堂


この奇跡に驚いた平作は当所に地蔵を安置して供養を続けました。

その後、将軍家斉が鷹狩りに来た際、地蔵の由来を聞いて感銘し、お参りをして帰城したとのことです。

平作はこれを記念して小堂を建てて地蔵を安置したところ、多くの人々が参詣するようになったとのことです。

お堂の前の坂は明治44年、堤防修築の時にできたものですが、いまでも「地蔵坂」の名前で知られています。


子育地蔵堂の前方に「日本一きびだんこ」の看板の店が、右手前方の墨堤通り反対側に「志満ん草餅」の店があります。

満ん草餅

明治初期より伝統の味を守り、ひとつひとつが手作りの草餅。

房総で摘んだ生のよもぎの香り・色とともに、素朴で自然な味わいが楽しめます。

風味を活かすため、添加物等は一切使用していないとのことです。


満ん草餅



日本一きびだんこ


子育地蔵堂から地蔵坂通りに入り、緩やかな左カーブ、右カーブと道なりに200mほど進むと右手に郵便局があります。

その先の筋を右に曲がって100m程進んだ右手が露伴児童遊園です。



露伴児童遊園



露伴児童遊園は、幸田露伴が明治41年(1908年)から大正13年(1924年)まで、蝸牛庵と名付けて親しんだ住居跡です。

幸田露伴は明治26年(1893年)にこの寺島町界隈に来てから、約30年間この地に住み数々の名作を書きました。


露伴児童遊園



幸田露伴文学碑


このゆかりの地を永久に記念したいとの幸田露伴を思慕される地主の菅谷氏が墨田区に土地を寄贈しました。


寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供達の楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園が造られました。



鳩の街通り商店街



露伴児童公園を右に見てそのまま真っ直ぐ進むと丁字路となり正面に寿司屋があります。

右に進むと墨堤通りに出ます。

左手の狭い通りが鳩の街通り商店街です。


右は墨堤通り 左が鳩の街通り商店街



鳩の街通り商店街


鳩の街通り商店街は、昭和3年に設立された寺島商栄会から続く、約80年の歴史を持つ古い商店街です。

東京大空襲をまぬがれたために、通りの道幅は戦前のままです。


昭和初期の木造建築物が残っていますが、商店街は歯の抜けたところもありやや寂しいですが、歴史ある街を見直そうという動きも活発のようです。



古い商店を再生した喫茶店こぐまもその一つです。

昭和2年築の木造長屋のカフェで、戦前から薬局だった造りをそのまま活かしたノスタルジックな空間が特徴です。

店内には昔からの薬棚を活用した棚ギャラリーやブックコーナーがあり、喫茶を楽しみながらのんびりとくつろぐことができるとのことです。


喫茶店こぐま



羽子板資料館



羽子板資料館


鳩の街通り商店街の寺島保育園の先にある鈴木荘の手前の三叉路を右折し、2つ目の筋を左折したところに羽子板資料館があります。


開館日・時間は木、金、土の午前10時〜午後5時です。

12月1日〜1月15日、6月15日〜7月15日は休館期間です。



明治初期から昭和初期に作られた羽子板や、昔から各地に伝えられてきた素朴な郷土羽子板の複製品などが展示されています。

「伝統の技法に工夫を加え、現代の羽子板を作りたい」という館長の西山さんはすみだマイスターにも認定され、息子さんと一緒にオリジナルの羽子板を制作しています。

尋ねれば製造工程をわかりやすく説明してくれるとのことです。


羽子板資料館



郷土羽子板


郷土羽子板



江戸木箸大黒屋



江戸木箸大黒屋


鳩が街商店街に戻り200mほど進むと水戸街道の「東向島1丁目」交差点です。

交差点を渡り3つ目の筋を左折すると、3つ目のブロックに江戸木箸大黒屋があります。

江戸木箸は大正の初期より作り始められ江戸職人の手によって約100年の伝統があります。



江戸木箸は厳選された銘木(黒檀、紫檀、鉄木、つげ、楓等)を素材として、木そのものの良さを活かした箸です。

江戸木箸は使い易さを求めて、つまみ易く握りの良い機能とデザインを追求し仕上げされた箸です。


江戸木箸大黒屋



各種の江戸木箸



各種の江戸木箸


手の感覚は人それぞれ異なるため(長さ、太さ、重さ)より自分の手に合った箸を幅広く選べるところに江戸木箸の奥深い魅力が隠されているとのことです。


昔は「胴張り」四角が主でしたが、現在大黒屋ではさまざまなアイデアを形にして、新しい江戸箸の開発に取り組んでいるとのことです。


自分に合った箸」とは「握りやすくて、つまみ易い」とのことです。実に明快です。

お店に並んでいる箸を見てびっくりです。

四角形から八角形までの箸が並んでいました。

五角形、七角形の箸、奇数の角度は偶数の角度に比べて非常に難しいとのことです。

 江戸木箸大黒屋


仕上げの工具



秋葉神社


「東向島1丁目」の交差点に戻り、左折して水戸街道を進み、次の「向島5丁目」の信号で左折したところに秋葉神社があります。


秋葉神社は正応2年(1289年)の創建と伝えられています。

祭神は秋葉大権現で、火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰されています。


水戸街道に戻り、左折して浅草方向に進み、2つ目の信号を右折して、300m程進むと「墨田区少年野球場前」の信号となります。

「墨田区少年野球場前」の信号を渡ったところが、「隅田公園少年野球場」です。

この少年野球場は、昭和24年(1949年)戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子供達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。


隅田公園少年野球場



隅田公園少年野球場


以来数多くの少年球児がこの休場から巣立っていきましたが、日本が誇る世界のホームラン王、王貞治選手もこの球場で育った一人です。

入口の門柱には一本足打法の王選手のレリーフが貼ってあります。


隅田少年野球場の隣りに、江戸時代から続く老舗の「言問団子」の店があります。

厳選した最高級の素材を丁寧に豆から煮上げ、すべて手作りの味は150年以上変わらぬ味だそうです。

新粉餅を小倉餡でくるんだ茶、白餡でくるんだ白、味噌餡を求肥でくるんだ黄の3食の団子です。

銘菓や橋の名にもなっている言問は、平安の歌人、在原業平の「名にしおはば いざ言問はむ 都鳥 我が思う人は ありやなしやと」からとっているとのことです。


言問団子



墨堤常夜燈と隅田川

言問団子の店から隅田川の川堤に上がったところに、墨堤常夜燈があります。

この常夜燈が置かれている場所は、かつては牛島神社の境内でした。

牛島神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。

この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入っては向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。

まだ照明が発達していない時代でしたから、この常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていたとのことです。

また、隅田川を往来する川舟のための灯台を兼ねており、墨堤の燈明として航行の安全を守っていました。


「墨田区少年野球場前」の信号で墨堤通りは、墨堤通りと見番通りとに分岐します。

白鬚神社方向から来て、大きく右に曲がるのが墨堤通り、左斜め方向に進むのが見番通りです。

墨堤通りがここで大きくカーブしていますが、カーブは昔の墨堤通りの名残です。

言問団子の店の墨堤通りの反対側に小さな公園があり、「墨堤植桜之碑」が建っています。



江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の東白鬚公園傍の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。

しかし、1800年代から地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸していきました。

墨堤の桜が長命寺、三囲神社へと徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年頃といわれています。

この間は、地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「勧進桜」と呼ばれる寄付が行われていました。

墨堤之碑にはこうした状況が刻まれています。


墨堤植桜之碑



野口雨情の都鳥の碑


また、この公園に野口雨情の都鳥の碑があります。

都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る

この都鳥の詩は、昭和8年門下生の詩謡集の助詞執筆のため当地を訪れた折りに。唱われたものです。



公園の先に「長命寺桜もち」の店があります。


「長命寺の桜もち」は、亨保2年(1717年)に初代が桜の葉の塩漬けを使った桜もちを考案し、長命寺の前で商ったのが始まりです。

正岡子規も愛したという桜もちは、桜葉を1枚ではなく、2〜3枚巻いてあるのが特徴で、食べずにその香りを楽しむのが「通」とのことです。


長命寺の桜もち



長命寺



長命水と石碑


「長命寺の桜もち」の店の傍の階段を下りたところが長命寺です。

長命寺の起源は、寺伝によると「当寺は元和元年頃の中田某の壇那寺なれば、この頃の建立に係るものならん・・・」とあり、村内一宇の道場として小庵が存在していたものと思われます。


徳川3代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩りを行った際、急に腹痛を起こし当寺で急速することとなった。

当時の住職が庭中にあった井戸水(般若水)を加持し、その水で薬を服用したところ、傷の痛みが止まったので、長命水と命名されたと伝えられています。

寺号も常泉寺から長命寺に改号され、東叡山寛永寺の末寺に属しました。

宗派は天台宗に属し、比叡山延暦寺を本山としています。


長命水



弁財天


長命寺が弁財天を祀るのは、長命水と関係があります。


弁財天はもともと天竺の水の神です。

仏教とともに渡来してからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神となったとのことです。



また境内には芭蕉堂、 観音堂、 弁天堂、 稲荷社、 地蔵堂、 般若堂等の諸堂がありましたが、いずれも震災で焼失してしまい、ご尊像のみは持ち出して難をのがれました。

当寺の石碑は震災の火を被っているが、30基ほど多様な石碑が残っています。

歌碑、俳句碑、狂哥碑、筆塚、人物碑、 墓石等です。


境内の石碑



芭蕉の句碑

芭蕉の句碑は、全国で1500余を数えるといわれていますが、その中で

いざさらば 雪見にころぶ 所まで

と刻まれた、雪見の句碑は、最も優れたひとつといわれています。

芭蕉の門人祇空はこの地に庵を造り、その後、祇空の門人祇特が、庵室に芭蕉蔵を安置し、芭蕉堂としました。
そして、3世祇徳が安政5年(1858年)に庵を再興し、この句碑を建立しました。





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     風来坊


境内の石碑


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