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上野恩賜公園散策 その2 (H22.1.23)


上野動物園出口から東京都美術館を望む



東京都美術館


竹の台噴水から東京国立博物館に向かって左手の林の奥に「東京都美術館」があります。


上野動物園を出て、左手に進んだところです。ボードワン博士像の裏手になります。

最初の東京都美術館は大正15年(1926年)に開館しましたが、50年を経過して老朽化が進み、現在の東京都美術館は昭和50年(1975年)9月1日に開館したものです。



最初の美術館は、貸館が中心でしたが、新しい美術館では自主事業として「企画展覧会の開催」「美術文化事業活動」「美術図書室の運営」を行い、また、貸館事業として「公募展示室」「アトリエ・講堂」を行うなど、美術館の名に相応しい機能をもつことに至っています。


東京都美術館



旧東京音楽学校奏楽堂



旧東京音楽学校奏楽堂


東京美術館を左手に見て、上野動物園と反対方向に進むと公園があります。


この公園の中を左手に進んだところが、「旧東京音楽学校奏楽堂」です。

東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だった奏楽堂は、明治23年に創建された日本最古の木造の様式ホールです。



昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存され、一般に公開されるようになりました。

昭和63年1月に国の重要文化財に指定されています。

2階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です。

公開日は火・木・日曜日です。


旧東京音楽学校奏楽堂



東京藝術大学


旧東京音楽学校奏楽堂の隣が東京藝術大学です。

東京藝術大学の手前の、旧東京音楽学校奏楽堂の道路の反対側にあるのが「博物館動物園駅跡」です。

昭和8年(1933年)の京成本線の開通にあわせ、東京国立博物館、国立科学博物館、上野動物園、東京藝術大学などの最寄り駅として開業しました。



その後老朽化や乗降客数の減少により平成9年に営業停止、平成16年に廃止となっています。


地下施設であるホームや改札も休止前の状態を保っており、列車で通過する際に僅かに見ることができます。

地上口は扉こそ閉じられていますが、休止前と変わらない佇まいです。


博物館動物園駅跡



黒田記念館


「博物館動物園駅跡」の左斜め前方が「黒田記念館」です。


黒田記念館は、洋画家黒田清輝の遺産と作品が国に寄贈されたことが契機となって建てられた施設です。

昭和3年(1928年)に竣工し、2年後に帝国美術院付属美術研究所として開所しました。黒田清隆の芸術を顕彰するために油彩画、素描等を公開しています。



東京国立博物館の関連施設です。

毎週木曜日、土曜日の13:00〜16:00の間のみ開館されております。

入場は無料です。


黒田記念館



国際子ども図書館


黒田記念館の隣にある大きな建物が「国際子ども図書館」です。


国際子ども図書館は、わが国初の国立の児童書専門図書館です。

内外の児童書や関連の研究書などを広範に収集・提供・蓄積し、電子的な情報発信を行うとともに、子どもと本の出会いの場を提供し、子どもの読書に関わる活動を支援するナショナルセンターです。



国際子ども図書館の建物は、明治39年(1906年)に帝国図書館として建てられ、昭和4年(1929年)に増築された明治期ルネサンス様式の建物を再生、利用したものです。

昭和23年(1948年)に国立国会図書館が創設されてからは、その支部上野図書館として運営されていましたが、改修工事を行い、平成12年5月5日に国立初の児童書専門図書館として開館しました。


国際子ども図書館



寛永寺根本中堂



寛永寺鐘楼


国立子ども図書館の先の三叉路を左折して道なりに200mほど進んだ右手が寛永寺です。

上野公園内の清水堂、弁天堂などの賑わいに比し、寛永寺周辺を訪れる人はまばらです。


現在の根本中堂(本堂)は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)に川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではありません。



内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像が安置されていますが、堂内は非公開です。

本堂の裏手に書院があります。

ここには、徳川慶喜が水戸退去の前に、2か月ほど蟄居していた部屋が(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されていますが、非公開です。


五代将軍綱吉霊廟勅額門



寛永寺境内

根本本堂の右手奥に五代将軍綱吉霊廟勅額門があります。

宝永6年(1709年)に竣工した綱吉の霊廟は、歴代将軍の霊廟の中で、もっとも整ったものの一つです。

ただし、その一部は維新後に解体され、また第二次世界大戦で焼失しました。
この勅額門は,その廟所と共に,これらの災いを免れた貴重な遺構です。

勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺です。



旧因州池田屋敷表門



寛永寺から来た道を元に戻り、博物館動物園駅跡を左折して100mほど進んだ左手が「旧因州池田屋敷表門」です。

この表門は、因州池田家江戸屋敷の表門として丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)に建てられていましたが、明治25年に芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建されました。

のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれました。

旧因州池田屋敷表門



旧因州池田屋敷表門(東京国立博物館敷地内から)


昭和29年3月に現在地に移建して修理を加えたものであります。

創建年代は明らかではありませんが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものです。

屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高いものです。

東京国立博物館の敷地にはいると表門の内側に行くことができます。



因州池田家江戸屋敷表門の国立博物館敷地内の傍に、「黒田家の江戸屋敷鬼瓦」が置かれています。

徳川幕府の参勤交代の制度により、江戸には諸大名の屋敷が設けられました。この鬼瓦は、筑前福岡藩黒田家の屋敷の建物の棟飾りとして用いられたものです。

鬼瓦といっても鬼面ではなく、複雑な雲文の鰭までを一体に造ったもので、屋根を重厚する江戸の趣味があらわれているとのことです。


黒田家の江戸屋敷鬼瓦(国立博物館敷地内)



東京国立博物館:表慶館



東京国立博物館:本館


旧因州池田屋敷表門から更に50mほど進んだ左手が、「東京国立博物館」です。

東京国立博物館は、日本と東洋の文化財の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として運営されている、明治5年(1872年)に創設された、日本最古の博物館です。

東京国立博物館は当初は湯島聖堂にありましたが、明治15年に上野公園に移り現在に至っています。



東京国立博物館の本館のある場所は、旧寛永寺の本坊があったところです。

本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなっています。

収蔵品の総数は11万件を超え、国宝87件、重要文化財622件が含まれています。


東京国立博物館:本館



東京国立博物館:本館


現在の本館は、昭和12年(1937年)11月に竣工し、昭和13年11月10日に開館したものです。

耐震耐火構造の地上2階地下1階、総面積21,500平方メートル、「日本趣味を基調とする東洋式」と称する建築様式の建物で、設計図案は公募されたものです。

本館では、日本の美術、工芸、歴史資料を展示しています。



表慶館は、明治33年(1900年)、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して計画され、明治42年(1909年)に開館しました。


日本で初めての本格的な美術館です。


東京国立博物館:表慶館



東京国立博物館:表慶館


設計は、J.コンドルの弟子で、東宮御所(現迎賓館)なども手がけた宮廷建築家の片山東熊です。

中央と左右に美しいドーム屋根をいただき、上層部の外壁面には製図用具、工具、楽器などをモチーフしたレリーフがあります。


表慶館では東洋の彫刻、工芸、考古遺物を展示しています。



東洋館は昭和43年(1968年)に開館し、中国、朝鮮半島をはじめ、東南アジア、インド、エジプトなどの美術品を展示しています。


2009年6月に閉館し、現在耐震工事が行われており、2012年に再度開館する予定です。


東京国立博物館:東洋館



東京国立博物館:平成館


平成館は、皇太子殿下のご成婚を記念して、平成11年(1999年)に開館しました。


2階はすべて特別展専用の展示室で、多様で高度な企画展示に対応できる広さと設備を備えています。

1階は考古展示室、さらに同時通訳設備を備えた講堂、来館者が休憩できるラウンジとドリンクコーナーがあります。



法隆寺宝物館は、国立博物館所管の法隆寺献納宝物をすべてまとめて保存・展示する建物として、昭和39年(1964年)に開館しました。

この旧宝物館は作品の保存上、公開は週1日に限られていました。

保存機能をさらに高めながらも広く一般に公開することを目的として、平成11年(1999年)に新宝物館が開館しました。

他の展示館と同様、週6日公開されています。


東京国立博物館:法隆寺宝物館



寛永寺両大師開山堂



両大師開山堂


東京国立博物館からさらに200mほど進んだ左手に「両大師開山堂」「旧寛永寺表門」があります。


現在の東京国立博物館の敷地は、寛永寺本坊があった場所ですが、その東側には正保元年(1644年)に、天海の像を安置する影堂(慈眼堂)が創建されました。

この堂は、後に慈恵大師が合祀されたことから、「両大師・開山堂」と呼ばれるようになっています。


それと隣接して寛永寺輪王殿があります。


寛永寺本坊には、「東叡山の山主である」輪王子宮法親王が居住していましたが、上野戦争で本坊は焼失し、表門のみが戦火を免れました。

明治11年、帝国博物館(現在の東京国立博物館)が開館すると,正門として使われましたが、関東大震災後,博物館改築に伴い、両大師開山堂に隣接する現在地に移建されました。

現在は寛永寺輪王殿の門となっています。


旧寛永寺表門


旧寛永寺表門から東京国立博物館の方向に100mほど戻った左手が「国立科学博物館」です。

国立科学博物館の前の林の中に「野口英世銅像」があります。竹の台噴水から東京国立博物館に向かって右側の林になります。

野口英世は福島県猪苗代町出身の細菌学者で、黄熱病や梅毒などの研究で知られており、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人といわれています。

明治33年(1900年)単身でアメリカに渡り、ロックフェラー医学研究所などで数々の研究成果をあげて、アメリカやヨーロッパなど、世界に名をなす人となりました。

しかし、アフリカで黄熱病の研究中、自ら感染し昭和3年(1928年)、51歳の若さでなくなりました。



国立科学博物館:日本館



旧寛永寺表門から東京国立博物館の方向に100mほど戻った左手が「国立科学博物館」です。

国立科学博物館は明治20年(1887年)に教育博物館として創立されていますが、現在地に移転してきたのは昭和5年(1930年)です。

平成16年(2004年)に新館がオープンし、あわせて本館の改修を進めて平成19年(2007年)に改修工事を完了しています。


国立科学博物館:日本館



国立科学博物館:地球館


国立科学博物館は、「生命の誕生と進化」「動物や植物の世界」「科学と技術の歩み」など、自然と科学の面白さを満喫できる国立としては唯一の総合科学博物館です。


日本館(旧:本館)は「日本列島の自然と私たち」をテーマに、地球館(旧:新館)は、「地球生命史と人類―自然との共存をめざして」をテーマに、多彩な標本が展示されています。



子どもに人気の参加体験型展示「たんけん広場」や生物の多様性をテーマとしたフロア、生命の誕生と絶滅にスポットを当てたフロアなどがあります。

なかでも全長18mのアパトサウルスなど、大恐竜の骨格標本展示は見ものです。


くじらの模型



D51蒸気機関車と地球館


国立科学博物館の敷地内にD51蒸気機関車が展示されています。


昭和11年(1936年)に設計され、貨物輸送用として日本の機関車の中では1車種としては最も多い1115両が生産されました。

全長19.7m、最大高3.98m、動輪直径は1.4m、最大動輪周馬力は1,280トンです。機関車運転重量は約78.4トンで、最大速度は時速85kmです。



地獄の門



国立科学博物館の隣にあるのが「国立西洋美術館」です。

国立西洋美術館は西洋の美術作品を専門とする美術館です。

国立西洋美術館は印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年に設立されています。

松方幸次郎は20世紀初めにフランスで多くの美術品を収集しましたが、コレクションは第2次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられました。


国立西洋美術館



考える人


松方コレクションが日本に返還される際の条件として、国立西洋美術館が建設されることになったものです。


現在は松方コレクションに加えてルネサンス期より20世紀初頭までの西洋絵画・彫刻作品の購入を進め、常設展示しています。



地獄の門


フランス人建築家ル・コルビュジエの設計による美術館の前庭にあるロダンの彫刻群です。


地獄の門



東京文化会館


国立西洋美術館の向かい側が「東京文化会館」です。


1961年に開館し、1999年に改装されて現在に至っています。

大ホール、小ホールの他、リハーサル室、会議室、レストラン、音楽資料室を擁しています。

クラシック音楽の殿堂、オペラの聖地として名高く、ウィーン国立歌劇場などの海外著名歌劇場が来日したときは必ずと言っていいほど東京文化会館で公演を行っています。



東京文化会館の隣に「正岡子規記念球場」があります。

国立科学博物館、国立西洋美術館を左手に見ながら進んでくると左手が東京文化会館、右手が正岡子規記念球場になります。

正岡子規は、明治時代の初めに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年(1886年)ごろから23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいました。


東京文化会館



正岡子規記念球場


正岡子規は野球を俳句や短歌、また随筆や小説に描いてその普及に貢献しました。

ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在でも使われています。

これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをしています。



上野恩賜公園開園130周年を記念して、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付けられ、球場の傍に句碑が建立されました。


春風や まりを投げたき 草の原

野球好きの子規が、大学時代にベースボール大会を行っていた頃に詠んだ句です。


正岡子規句碑



擂鉢山古墳


正岡子規記念球場を右手に見ながら通り過ぎた右手の高台が「擂鉢山古墳」です。


擂鉢山は、その形状が擂鉢を伏せた姿に似ていることから名付けられました。

ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約1500年前の前方後円形式の古墳と考えられています。

現存長70m、後円部径43m、前方部幅は最大部で23mです。後円部の道路との比高は5mです。



丘の上はかつての五條天神、清水観音堂鎮座の場所であったとのことです。

清水観音堂は、当初はこの地にありましたが、元禄年間(1688年〜1703年)初め頃、寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転しました。

現在、丘の上は休憩所となっていますが、昔のままの擂鉢の形を保っています。


擂鉢山古墳



擂鉢山古墳から寛永寺清水観音堂の方向に進んだ広場に「時忘れじの塔」があります。

落語家の故・林家三平師匠未亡人海老名香葉子さんが建立した、東京大空襲を忘れないための平和の母子像の記念碑で、平成17年3月9日に開眼供養と除幕式が行われました。

場所的には清水観音堂のすぐ北側で、西郷隆盛銅像や彰義隊の墓の後方にあたります。



擂鉢山古墳から散策路に沿って西郷隆盛像の方向に進むと、左手に日本芸術院会館、上野の森美術館があります。

上野の森美術館は財団法人日本美術協会が管理運営している美術館で、昭和47年(1972年)に開館しました。

公募展や特別展が随時開催されています。


日本芸術院会館



上野の森美術館


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 上野恩賜公園

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