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上野恩賜公園散策 その1 (H22.1.23)


上野恩賜公園袴腰広場



JR上野駅しのばす口

上野恩賜公園は、江戸時代は東比叡山寛永寺の領地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称がついています。

東比叡山寛永寺は、3代将軍家光の命により、天界僧正によって寛永2年(1625年)に建立されています。

戊辰戦争において、徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺は彰義隊が終結して反政府軍の拠点になり、しばしば新政府軍の兵士と衝突していました。


慶応4年5月15日、大村益次郎指揮の官軍は、彰義隊を総攻撃し、壊滅させました。

のちに、「上野戦争」と呼ばれている戦いです。

この戦いの主戦場となった上野寛永寺は官軍の攻撃により焼失し、明治維新以降、上野の山一帯は焼け野原となり放置されていました。

明治6年の太政官布達によって、上野恩賜公園は、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。


石段を登ると上野恩賜公園



袴腰広場からの上野広小路の展望


当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後整備が進められ、総面積54万平方メートルの公園敷地内には、不忍池、上野東照宮、上野動物園、東京国立博物館、国立科学博物館、東京都美術館、国立西洋美術館をはじめとした文化施設が建てられ、四季には数々の催し物が開催され、文化の香り高い公園へと衣替えしました。


寛永寺は、かつて慶喜が謹慎していた寛永寺大慈院の跡地に移されています。


上野恩賜公園内には数々の名所があります。

しかしながら、上野恩賜公園を訪ねる場合は、上野動物園、美術館、博物館、冬ぼたんや桜並木などのスポットを訪ね、用件が終わればそのまま帰ることが多く、公園内をゆっくりと散策することは少ないようです。

ということで、意外と知られていない上野恩賜公園の散策スポットを紹介します。

次回上野恩賜公園を訪ねる時の参考になれば幸いです。


カエルの噴水



カエルの噴水

JR上野駅の「しのばず口」から信号を渡り左方向に進んでいくと右手に階段があります。

階段を登ると上野恩賜公園ですが、階段を登らずにそのまま進むと右手に京成上野駅正面口、続いて交番があり、その先が袴腰広場です。

袴腰広場は上野広小路方面からの入り口になります。

この広場の中央付近に、おへそのついた可愛い「蛙の噴水」があります。

夜になるとライトアップされるとのことです。



この蛙の噴水から上野恩賜公園の内部に少し進んだところが「黒門跡地」です。

黒門は寛永寺の南方に設けられていた門で、城でいうと大手門に位置していました。寛永寺の諸門の中でも最も大事な入口で,寛永2年(1625年)に建てられました。

黒く塗られていたので黒門と呼ばれています。

黒門は1868年5月15日の上野戦争で最激戦地となった場所です。


蜀山人の碑



黒門跡地から桜並木を望む

明治6年(1873年)に寛永寺敷地の大半を上野公園にするに当たり、東照宮大鳥居の近くに移転し,明治40年(1908年)には彰義隊を供養した住職仏磨との因縁で,荒川区南千住の円通寺に移築されており、上野の黒門跡地には当時の面影は何もありません。

黒門跡地に「一めんの花は基盤の 上野山 黒門前に かかるしら雲」と歌一首が刻まれた蜀山人の碑が建てられています。

ここから真っ直ぐ進むと桜並木になります。



黒門跡地の右手にある階段を登ったところが山王台跡です。

上野戦争で黒門口とともに激戦地になった場所です。跡地には上野のシンボル、「西郷隆盛の銅像」が建てられています。

現在は、西郷隆盛像のある山王台跡へ袴腰広場から行く場合は急な石段を上ることになりますが、江戸時代はこれが崖のようになっていて男の袴の後ろ姿に似ているというので袴腰と呼ばれていました。


山王台跡への石段



西郷隆盛の銅像



西郷隆盛の銅像


明治維新の指導者の西郷隆盛は、幕府征討軍参謀として幕臣の勝海舟との会談で、江戸城の無血開城を実現しました。


その後、明治10年(1877年)の西南戦争で朝敵となった西郷隆盛ですが、明治22年(1889年)2月の大日本帝国憲法発布の大赦で正三位を追贈されて、逆賊の汚名から名誉を回復しました。



上野のシンボルの西郷隆盛さんは、筒袖に兵児帯をしめた着流し姿、右手に犬を引いています。

犬は「ツン」という名前です。

明治31年(1898年)12月18日に、上野公園で除幕式が行われました。

銅像の作者は、高村光太郎の父、高村光雲です。


山王台跡から上野広小路を望む



彰義隊士の墓


西郷隆盛の銅像の後方30mほどの木陰の中に「彰義隊士の墓」があります。


慶応4年(1868年)5月15日の上野戦争で戦死した彰義隊の遺体は、見せしめのために上野山内に放置されていましたが、南千住円通寺の住職仏磨や寛永寺御用商人三河屋幸三郎などによって当地で火葬されました。



生き残った小川椙太ら彰義隊士は、明治7年(1874年)にようやく政府の許可を得て、激戦後であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立しましたが、思うように募金が集まらず、その墓は取り壊されたようです。

紆余曲折を経て明治14年(1881年)に、彰義隊の隊士を火葬にした場所に、山岡鉄舟筆による「戦死之墓」が建てられました。


彰義隊士の墓



彰義隊の碑


墓碑の台座上に小さな墓碑が乗せられていますが、これは「戦死之墓」建立時に地中から発掘されたもので、明治2年(1869年)に上野山内の護国院と寒松院関係者により建立されたといわれています。


当墓碑は、建立後120年余りにわたり、小川一族によって守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として東京都の管理下に置かれています。


彰義隊士の墓の30mほど斜め後方に、寛永寺を創建した「天海僧正の毛髪塔」があります。

寛永寺は天台宗の関東総本山で、天海僧正によって寛永2年(1625年)に建立されました。

創建当時は、江戸城の鬼門を守る祈願所でしたが、のちに芝増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺となりました。

歴代将軍のうち6名(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)の墓所があります。


天海僧正の毛髪塔



天海僧正の毛髪塔


天海僧正は寛永20年(1643年)に本覚院において108歳で死去しました。

遺命により日光に葬られ、この地(旧本覚院跡)に供養塔が建てられました。

後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになりました。



寛永寺清水観音堂



彰義隊士の墓や天海僧正毛髪塔のすぐ傍の赤色の建物が、「寛永寺清水観音堂」です。

寛永寺は東の比叡山ということから山号を「東叡山」と称しています。

天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営するということから、上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖に見立てるとともに、また竹生島(ちくぶじま)にならって弁天島を作り、清水寺を模して清水観音堂を建てたといわれています。


清水観音堂



清水観音堂と清水坂


清水観音堂は寛永8年(1631年)に建立され、清水の舞台からは不忍池の蓮池が眺望できたとのことです。

現在は不忍池弁天堂を望むことができますが、その周囲の蓮池は木立でなかなか望めません。

ご本尊は千手観世音菩薩です。



清水観音堂


清水観音堂



清水観音堂のそばに石段がありますが、清水坂と名付けられています。


清水坂を下りて右手に100mほど進んだ左手に、「五條天神社」と「花園稲荷神社」があります。

メインの桜並木の入り口付近です。


桜並木からの清水観音堂



五條神社


五條天神社は薬祖神としての信仰を集めた神社です。室町時代中期には上野公園内の摺鉢山にご鎮座されており、台東区内でも有数の古社です。


大正14年(1925年)に現在の地にご遷座されました。



うけらの神事(節分の行事)で有名です。


五條神社



花園稲荷神社



花園稲荷神社


花園稲荷神社の御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称です。


石窟の上にあったことから俗称、穴稲荷とも言われていました。

承応3年(1654年)に天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としました。



幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地「穴稲荷門の戦」として知られています。

その後、明治6年(1873年)に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名しました。

五條神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営され神苑も一新されました。


穴稲荷



穴稲荷


「穴稲荷」は正しくは「忍岡稲荷」といわれており、花園稲荷の旧社殿のあった場所です。

穴稲荷の左奥にあるお社は、天海僧正が寛永寺を草創の際に、忍ヶ岡の狐が住む処が無くなるのを憐み、一洞を造りその上に祠を建てて祀ったと伝えられています。



花園稲荷神社から連なる鳥居を抜けて桜並木に戻ると左手に風情溢れる佇まいが印象的な一軒家の料亭・韻松亭があります。


明治8年に建てられた純和風建築で、吟味を重ねた料理を楽しむことができるとのことで大人気のようです。


韻松亭



時の鐘


韻松亭を左に見て20mほど進んだ左手の小高い場所に「時の鐘」があります。


松尾芭蕉が

 花の雲 鐘は上野か 浅草か

と詠んだ句はここの鐘のことです。



時の鐘は、はじめは江戸城内で撞かれていましたが、寛永3年(1626年)になって、日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになりました。

元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内、浅草寺のほか、本所横川、芝切通し、市谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺などにも置かれました。


桜並木入口



桜並木入口(桜の時期)


初代の鐘は寛文6年(1666年)に鋳造され、現在の鐘は天明7年(1787年)に谷中感応寺(現・天王寺、日暮里駅傍)で鋳直されたものです。


現在も鐘楼を守る人によって、朝夕6時と正午の3回、昔ながらの音色を響かせています。

鐘の傍に近寄ることはできません。



時の鐘の左奥にあるのが上野精養軒です。


精養軒は明治5年創業のフランス料理の老舗で、上野公園開設に伴う公園内食事処かつ社交の場として、最高の展望を誇る現在の地に明治9年に支店として「上野精養軒」を開業しました。

大正12年の関東大震災により築地本店が焼失したため、上野精養軒はこの時より本店機能を果たすこととなりました。


精養軒



上野の大仏への参道


上野精養軒の右手前にある石段を登った丘の上に「上野大仏」と「パゴダ」があります。


時の鐘から20mほど進んだ右手になります。

最初の大仏は、寛永8年(1631年)に越後村上藩主堀直寄が、自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために釈迦如来像を造立しました。

粘土を固めたものであったため、正保4年(1647年)の地震で倒壊しました。



明暦・万治の頃(1655年〜60年)木食僧浮雲師が市民からの浄財によって3m60cmを超える青銅製の釈迦如来像を造立、元禄11年には仏殿が建立されました。

大正12年(1923年)の関東大震災で佛頭が落ちて寛永寺で保管しました。

その後、佛体は解体されて第2次世界大戦に献納されたため、面部のみが寛永寺に残りました。


上野の大仏



上野の大仏


寛永寺では、昭和47年丘陵上の左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安しました。


江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立されており、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存しています。

時の鐘の傍から登ってきた石段です。



パゴダは上野観光連盟が大仏再建の願いを込めて建設したもので昭和46年に完成しました。

高さは15mで、内部の中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置しています。

この薬師三尊像は、江戸末期東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられたものです。


パゴダ



トーテムポール



トーテムポールから動物園の方向に30mほど進んだ左手にあるのが「お化け燈籠」です。


佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠です。

高さ約6mであまりの巨大さからおばけ燈籠と呼ばれています。

同じ勝之が寄進した京都南善寺、名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられています。


大仏の丘から桜並木の方に階段を下りて、左手(大噴水の方向)に30mほど進んだ左手に「トーテムポール」があります。


トーテムポールは北米のインディアンの部族が集落の入り口などに立てる、柱状の木の彫刻です。

上野恩賜公園では案内板をかねて上野ライオンズクラブの手によって建立されています。

トーテムポールから左手の道を進むと上野動物園です。



お化け燈籠



上野東照宮参道入口



上野東照宮ぼたん苑


お化け燈籠のすぐ裏手が「上野東照宮」の参道入り口です。

上野東照宮への参道の左側に「ぼたん苑」があります。

上野東照宮のボタン苑は昭和55年(1980年)に日中友好を記念として開苑しました。

回遊式の日本庭園には、日本のぼたんと中国政府から友好記念として贈呈された希少な中国のぼたんを合わせて290品種、3,800本が見事な花を咲かせるそうです。



冬ぼたんは約40種類、600本が公開されています。


雪除けのわら囲いの中で寒さに耐えながら可憐な花を咲かせる冬ぼたんは、なかなかの風情があります。

ちょうど冬ぼたんが見頃を迎えていました。


上野東照宮ぼたん苑



上野東照宮(現在工事中で写真は昨年のものです)



上野東照宮参道、左側はぼたん苑

上野東照宮は、寛永4年(1627年)に藤堂高虎が上野の屋敷内に創建した神社です。

しかし3代将軍家光は,高虎の建てた東照宮が気に入らず,社殿の全面造り替えを命じ,慶安4年(1651年)に現在の東照宮が完成しました。

唐門,透塀,拝殿,幣殿,本殿からなり、日光東照宮と同じ、本殿との間を石の間でつなぐ「権現造り」が用いられています。

今回は工事中でした。



東照宮社殿唐門前と参道に50基の銅燈籠が並んでいます。


燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするものです。

これらの銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したものです。

竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されています。


上野東照宮の銅燈籠



旧寛永寺五重塔



旧寛永寺五重塔(ぼたん苑から)


旧寛永寺五重塔は、寛永16年(1639年)に、下総国佐倉城主の土井利勝が東照宮造営にあたり寄進したものです。

したがって、もともとは上野東照宮の五重塔でしたが、明治になって寛永寺の所属となり、昭和33年に寛永寺から東京都に寄付されました。

このため、現在は上野動物園の敷地内にあります。



上野東照宮の参道を出て、左手に30mほど進んだところが「上野動物園」の入り口です。

上野動物園は都立の動物園で、開園は明治15年(1882年)3月20日で、日本で最も古く、年間入場者が日本一の動物園です。

1972年以来、30数年にわたってジャイアントパンダがシンボル的存在でしたが、2008年4月30日に「リンリン」が死亡し、パンダが1頭もいなくなりました。


上野動物園入口



上野動物園入口傍の売店


このため、年間350万人を超えていた入園者が、2008年度は約290万人まで急減したとのことです。


現在の飼育動物は500種を超えており、飼育動物の種類も日本で一番多いです。

敷地は東園と西園に分かれており、両園を結ぶモノレールは日本最初のモノレールです。



上野動物園から出て真っ直ぐ進むとすぐ右手に「グラント将軍植樹碑」があります。


メリーゴーランドの裏側になります。

グラント将軍は南北戦争で北軍に勝利をもたらした偉大な司令官で、アメリカ合衆国の第18代、第19代の大統領です。


グラント将軍植樹碑



グラント将軍植樹碑


任期終了後、夫妻で世界一周旅行の途上で、明治12年(1879年)に来日し、上野公園で開催された大歓迎会に臨み、将軍はロウソンヒノキ 夫人はタイサンボクを植樹されました。

この碑は、これを記念して昭和4年に建立されたものです。


グラント将軍植樹碑の隣にあるのが「小松宮親王像」です。

小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8王子として生まれ、安政5年(1858年)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867年)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称しました。

小松宮彰仁親王は鳥羽・伏見の戦いでは東征大将軍として参戦し、また戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執りました。


小松宮親王像



竹の台噴水


明治15年(1882年)に、東伏見宮を小松宮に改称、近衛師団長、参謀総長を歴任し陸軍元帥になります。


銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行されました。

上野公園に小松宮親王の銅像を建てたのは、上野戦争で彰義隊の盟主としてかつがれていた輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察されています。



竹の台噴水


小松宮親王像の左前方が「竹の台噴水」です。

寛永寺では、天海僧正のあと、三代目からの山主には必ず皇族(皇子もしくは天皇の養子)を迎えることになりました。

これが輪王寺宮(りんのうじのみや)で、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の3山を統轄しました。

鎌倉幕府は皇子を将軍に迎え、実権は北条氏が執権として握っていましたが、徳川幕府は、輪王寺宮に皇族を迎えることで、公卿との共生をはかりました。


ぼたん苑の冬ぼたん:花遊仙



ぼたん苑の冬ぼたん:島の藤

現在、上野公園の噴水のあるところは、竹の台と呼ばれていた処ですが、ここに将軍綱吉によって根本中堂が建てられました。

輪王寺宮が寝泊まりする本坊はその奥の国立博物館のところにありました。

慶応4年(1868年)5月15日の上野戦争で主要な伽藍の殆どが焼失してしまいました。

官軍は寛永寺を旧体制の象徴とみて徹底的に焼き払ったといわれています。



竹の台噴水の東京国立博物館に向かって左側の林の中に、「ボードワン博士像」があります。


オランダのボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日しました。

明治新政府は、この地を陸軍用地、病院建設予定地として考えていましたが、現地を見聞し景観の良さに感心したボードワン博士が、近代的な公園にすべきと提言したことにより、1873年に日本最初の公園が誕生しました。


ボードワン博士像



ハイヌーン


上野公園生みの親とも言える人物で、上野公園開園100年を記念して像が建立されました。

当初の像はオランダ政府の資料錯誤で弟の像だったとか!



関連するホームページ

 上野恩賜公園


 上野観光情報サイト



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 上野恩賜公園散策その3へ



          風来坊


島錦


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