散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

鎌倉の紅葉 その2 (H22.12.4)


鶴岡八幡宮



倒れたイチョウからも芽がでています

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は、源頼義が前九年の役で奥州の安部氏を平定した後、鎌倉に帰り、康平6年(1063年)、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。

その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180年)鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に移しました。


建久2年(1191年)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。

源頼朝がこの高台に社殿を造った時は、すでに平家は滅亡し、奥州・藤原氏も討伐し、全国60余州を平定した時でした。

翌年には、征夷大将軍となり、まさに頼朝の絶頂期でした。


移植されたイチョウ



鶴岡八幡宮の紅葉



鶴岡八幡宮の紅葉

この頃の鎌倉はすでに、京都と並んで政治文化の中心となっており頼朝は関東の総鎮守となって崇敬されていました。

以来、鶴岡八幡宮は常に鎌倉のシンボルであり、幕府の儀式や行事はすべてここを中心に行われました。

また武門のシンボルとしても豊臣、徳川家から手厚い信仰を受けていました。


現在の御本殿は、文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定されています。

 
深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社をはじめとする境内社のほか、 静御前ゆかりの舞殿が八百年の長い歴史を伝えています。


鶴岡八幡宮の紅葉



鶴岡八幡宮の紅葉



鶴岡八幡宮の紅葉

樹齢千年余といわれる大銀杏は、平成22年3月10日、強風のため根元から倒れました。

倒れた大銀杏は3つに切断され、根元から高さ4mまでが、7m離れた場所に移植されました。

もとの根元もそのまま残されており、そこから芽が出てきています。



鶴岡八幡宮の紅葉


源平池



建長寺の紅葉


建長寺

鶴岡八幡宮を右手にみて北鎌倉方向に進み、巨福呂坂の切り通しを抜けると建長寺です。

建長寺は臨済宗建長寺派の大本山であり、鎌倉五山の第一位に位しています。

鎌倉幕府5代執権北条時頼が、建長5年(1253年)に宗から来日していた高僧・蘭渓道隆を招いて建立したわが国最初の禅寺です。


建長寺の紅葉



建長寺の紅葉

創建当時の伽藍配置は、総門、三門、仏殿、法堂などの主な7つの建物が中軸上に並ぶ中国の禅宗様式の伽藍配置になっており、49の塔頭(小寺院)を有する大陸的な荘厳なものでした。

その後、14〜15世紀に起こった数度の火災でその多くを焼失しましたが、江戸時代に入り高名な沢庵和尚の進言で再建されました。



半僧坊への参道


鐘楼の右奥にある禅堂では、蘭渓道隆が宋から伝えた厳しい禅風が脈々と受け継がれ、現在も厳しい修行が行われています。

蘭渓道隆は後宇多天皇から大覚禅師の称号をおくられたが、これは日本最初の禅師号です。


半僧坊への急な坂道



建長寺の紅葉


建長寺の紅葉



半僧坊への急な坂道

蘭渓道隆の死後も建長寺は北条氏、足利氏に保護され隆盛を誇った。

とりわけ
,この寺を建立した北条時頼は、建長寺を建立した後も、大覚禅師(蘭渓道隆)などに師事し禅宗を深く信仰し、経済的にも寺を支え,信仰者として禅宗を全国へ広めました。



建長寺の紅葉



建長寺の紅葉


建長寺の境内奧の参道を進むと鳥居が見え石段が始まります。

長い石段を登ると半僧坊大権化境内に辿り着きます。

半僧坊手前の岩肌には数十体の烏天狗像が、こちらの様子を伺うかのように置かれています。

鳥居から半僧坊境内までが紅葉の名所です。


建長寺の紅葉



建長寺の紅葉


建長寺の紅葉



半僧坊の烏天狗



半僧坊の見晴台



半僧坊への石段

ここに祀られている半僧坊権現は、明治23年(1890年)に当時の住持であった霄(おおぞら)貫道禅師が静岡県引佐郡奥山(現在の浜松市)の方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益があるといわれています。

建長寺の守護神です



烏天狗


烏天狗


半僧坊権現は、方広寺を開山した後醍醐天皇皇子の無文元選禅師の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したとのことです。


三門



半僧坊


仏殿



円覚寺入口



円覚寺入口

円覚寺

円覚寺は臨済宗円覚寺派の総本山で鎌倉五山の第二位に位しています。

弘安5年(1282年)、鎌倉幕府八代執権北条時宗が創建しました。

文永・弘安の役で蒙古の大軍を撃破した時宗は、両軍戦死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅宗を広めたいと願い、その師・無学祖元を開祖に円覚寺を建立しました。



円覚寺の紅葉


円覚寺の紅葉


円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山、山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿があつまったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれています。


円覚寺入口付近



仏殿から境内奥への散策路



居士林入口の紅葉

開山国師(無学祖元禅師)の法灯は高峰顕日、夢窓疎石と受け継がれその流れは室町時代に日本の禅の中心的存在となり、五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。


円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府の篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。

室町から江戸時代にかけて幾たびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期(天明年間)に大用国師が僧堂、山門等の伽藍を復興し、今日の円覚寺の基礎を築かれました。


円覚寺参道の紅葉



仏殿の紅葉


円覚寺参道の紅葉



佛日庵付近の紅葉



佛日庵付近の紅葉

伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が今日まで伝わっており、山門、仏殿、方丈と一直線に並び、その両脇に15の塔頭寺院が建っております。

現在の建物は関東大震災以後に修復されたものです。



円覚寺は紅葉の名所として有名ですが、前日の強風の影響を受けたようで、多くの紅葉は残念ながら葉が風に吹き飛ばされ、見頃過ぎの状態になっていました。

佛日庵付近の紅葉



円覚寺参道の紅葉



円覚寺参道の紅葉


円覚寺参道の紅葉



 鎌倉の紅葉その1へ


       風来坊


目次  TOP 前ページ 次ページ HOME