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長谷寺の紅葉
今年は紅葉の時期の見極めがなかなかつかず11月29日に六義園、小石川後楽園、旧古河庭園を訪ねたところすでに見頃を過ぎつつありました。 このため12月初旬に鎌倉を訪ねようとしたところ、12月3日に関東南部を台風並みに発達した低気圧が通過し、各地で突風の被害が出ました。
低気圧は鎌倉付近を通過しましたので、紅葉は散ってしまったのではないかと思いましたが、思い切って訪ねることにしました。 イチョウは見事に吹き飛んでいましたが、モミジは強風で吹き飛ばされている樹もありましたが、大部分は大丈夫でした。
今年は鎌倉の紅葉は1回しか見に行くことができませんので、1日歩き回りました。 今回のコースは次のとおりです。 長谷寺→高徳寺(鎌倉大仏)→杉本寺→報国寺→旧華頂宮邸→鎌倉宮→覚園寺→鶴岡八幡宮→建長寺→円覚寺
長谷寺 長谷寺は正式な名称を「海光山慈照院長谷寺」と号しております。 天平8年(736年)開創という鎌倉でも有数の古刹です。 開山は徳道上人、開基は藤原鎌足の孫にあたる藤原房前です。
本尊である十一面観音菩薩は、養老5年(721年)に徳道上人の本願によって、一本の楠の霊木から刻出された2体の観音像のうちの一つといわれています。 残る一体は大和の長谷寺の本尊です。 古来より板東三十三観音の第4番霊場として民衆の信仰をあつめ、「長谷観音」の通称で親しまれる尊像は総高9.18mあり、日本最大級の木彫観音だそうです。
長谷寺は、観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれています。 入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配置され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっております。
観音堂
上の境内には、本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂をはじめ、主要な諸堂宇が建ち並ぶほか、鎌倉の海と街並みが一望できる「見晴台」と、傾斜地を利用した「眺望散策路:アジサイの径(こみち)」があり、鎌倉でも有数の景勝地となっています。
阿弥陀堂
下の境内と上の境内を結ぶ参道の紅葉が見頃を迎えていました。 上の境内に大きなイチョウの樹がありますが、残念ながら前日の強風で吹き飛ばされてしまったようです。
強風で散ってしまったイチョウ
高徳寺(鎌倉の大仏)
高徳院(鎌倉の大仏) 高徳院は浄土宗の寺院で一般には「鎌倉の大仏」の通称で知られています。 本尊は「鎌倉の大仏」「長谷の大仏」と称されている阿弥陀如来像です。 開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多いようです。
高徳寺の紅葉
大仏は像高約11.3m(台座を含め高さ13.35m)で重量は約121トンです。 角張った平面的な面相、猫背気味の姿勢、体分に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されています。
高徳寺のイチョウ
高徳院は大仏の周りに見事なイチョウの樹が何本もありますが、残念ながらイチョウの葉は吹き飛ばされていました。 紅葉は大部分の樹が少し見頃を過ぎていました。
杉本寺の紅葉
杉本寺 杉本寺は天台宗の寺で、鎌倉幕府が開かれる500年近く前の平安初期の天平6年(734年)に創建された鎌倉最古の寺です。 行基菩薩が自ら彫刻した十一面観音像を安置したのが始まりと伝えられています。 文治5年(1189年)に火災で焼失しましたが、建久2年(1191年)に源頼朝が再興したと伝えられています。
杉本寺本堂
杉本寺の苔
杉本寺参道
杉本寺は本堂手前の石段に苔が生えておりますが、この時期は苔むした感じでした。 杉本寺の本堂から左手に進むと眺望の良い場所にでます。 この日は眼下の紅葉とともに富士山を展望することができました。
杉本寺からの展望
杉本寺は鎌倉市二階堂にあり、JR鎌倉駅から徒歩30分程度ですが、今回は時間短縮のためにバスで移動しました。 JR鎌倉駅北口から金沢八景方面行きバス(鎌23系統大刀洗行き、鎌24系統金沢八景行き、鎌36系統ハイランド循環)に乗車し、「杉本観音」で下車すると徒歩1分です。
報国寺の紅葉
報国寺 杉本寺から金沢八景方向に200m程進んだ最初の信号を右折して200m程進んだ右手が報国寺です。 報国寺は臨済宗建長寺派の寺院で、山号は功臣山、本尊は釈迦三尊です。
本堂
迦葉堂
報国寺は建武元年(1334年)に夢想国師の兄弟子の天岸慧広の開山により創建されました。開基は足利尊氏の祖父の足利家時です。 永享10年(1438年)の永享の乱で関東公方・足利持氏は敗退し、永安寺で自刃しましたが、その長子・義久もこの寺に入って自刃したという悲劇の寺です。
報国寺の孟宗竹
報国寺のイチョウ
古くから境内の孟宗の竹林で知られており、「竹の寺」とも称されています。 三門をくぐり右側の石段を登ると本尊の釈迦如来坐像が祀られている本堂があります。 本堂の右手に迦葉堂、左手にかやぶきの鐘楼があります。 数多くの文化財がありますが、殆どは現在、鎌倉国宝館に所蔵されています。
旧華頂宮邸
旧華頂宮邸 報国寺からさらに山手に200m程進んだところに旧華頂宮邸があります。 華頂宮は、慶応4年(1868年)に伏見宮邦家親王の第12王子、博経親王によって創設された宮家です。 第4代華頂宮博忠王に王子女がなかったため、大正13年(1924年)に断絶しました。
旧華頂宮邸の紅葉
華頂宮第3代当主・伏見宮博恭王3男の伏見宮博信王が大正15年(1926年)に、20歳で海軍少尉の時に臣籍降下し華頂伯爵家を創設ました。 同時に華頂宮家の祭司を承継しました。
旧華頂宮邸の建物は、昭和4年(1929年)に華頂博信侯爵邸として建てられたものです。 常住の住宅として用いられたようですが華頂夫妻が住まわれたのは数年で、その後所有者がたびたび代わり、平成8年5月に鎌倉市が取得し、平成18年4月に鎌倉市の景観重要建築物に、同年10月に国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。
戦前の神奈川県内の洋風住宅建築としては、鎌倉文学館(旧前田侯爵別邸)に次ぐ大規模なものです。 敷地面積は約4500平方メートルです。 構造は木造3階建てで、建物延べ床面積は約580平方メートルです。 年2回春と秋に一般公開が行われ、建物の内部を見ることができます。
鎌倉宮
鎌倉宮 鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王を祭神とする神社です。 明治2年(1869年)に、建武の中興に尽くしたものの若くして命を奪われた護良親王の遺志を後世に伝えることを望まれた明治天皇が創建しました。 「鎌倉宮」の名前は明治天皇が自らつけられました。 また、鎌倉宮は、別名大塔宮と呼ばれています。
鎌倉宮の紅葉
大塔宮護良親王は後醍醐天皇の第三皇子です。 元弘の変が起きると、後醍醐天皇を援けて吉野、熊野等で鎌倉幕府討幕運動の中心として、活躍しました。 鎌倉幕府は滅亡し、護良親王は、元弘3年(1333年)に征夷大将軍となり軍勢を率いて入洛しました。 その後、足利尊氏との対立により足利方に捕らえられ、東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で、尊氏の弟の直義によって殺害されました。
護良親王を葬ったのが理智光寺の住職です。 理智光寺は明冶初めに廃寺となりましたが、護良親王の墓は、その理智光寺跡の谷にあり、宮内庁が管理しています。 鎌倉宮のあたりは、護良親王が、足利直義に幽閉された東光寺のあったところです。 社殿の背後に親王が幽閉されたという土牢があります。
覚園寺の紅葉
覚園寺 鎌倉宮の左側のバスターミナルから奥の方に500m程進んだところに覚園寺があります。 覚園寺の少し手前に鎌倉アルプスへの登山道があります。
覚園寺は、鎌倉幕府2代執権北条義時が、建保6年(1218年)に建てた大倉薬師堂が起源とされています。 その後9代執権北条貞時が元弘来襲の発生しないことを祈り寺に改め、正式の寺院となりました。
その後火事で焼失しましたが、文治3年(1354年)足利尊氏によって再建されました。 覚園寺は後醍醐天皇や足利尊氏など代々の為政者の手厚い保護を受けてきました。 鎌倉の地形の特色である尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷(やつ)が覚園寺の境内となっています。
境内には樹木が多く、自然環境が良好に保持されており、都市化によって多くの寺が変貌する中で、鎌倉時代の面影をもっともよく残す寺の1つといわれています。 参拝者は境内に自由に立ち入ることはできず、定められた時間に、寺側の案内者の先導で、順路にしたがって拝観することになります。 なお、拝観時の写真撮影は一切禁止されています。
鎌倉の紅葉その2へ 風来坊