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初夏の横浜山手散策 その1 (H20.5.23)

山手イタリア山公園〜外国人墓地


山手イタリア山庭園からの展望



山手イタリア山庭園入口


久し振りに初夏の横浜山手及び山下公園を散策しました。


今回の散策ルートは、JR根岸線石川町駅から「イタリア山庭園」に上り、山手西洋館などを見ながら「港の見える丘公園」まで行き、そこからフランス山を経由して山下公園までというものです。

バラの時期で、美しいバラが各地で出迎えてくれました。



横浜山手地区は、横浜開港期に外国人の居留地だったところです。


明治中期になると、港を見下ろす風光明媚な丘の上に、西洋館が建ち並んで異国情緒を漂わせていました。

しかしながら、横浜山手の美しい西洋館は、関東大震災で残念ながら殆ど倒壊してしまいました。


ブラフ18番館



ブラフ18番館


現在の横浜山手に残されている西洋館は、大正末から昭和初期にかけて建てられたものです。


山手地区には横浜市保有の西洋館が7館ありますが、いずれも公園の付帯設備として管理され、資料の展示なども行われています。

味わいの異なる洋館を巡るのは、横浜山手観光の定番コースの一つです。




JR根岸線石川町駅から元町方向に30mほど進むと「山手イタリア山庭園」の案内があります。

案内にしたがって、やや急な大丸谷坂を200mほど進むと、右手に洒落た「山手イタリア山庭園」の入口があります。


ブラフ18番館入口



ブラフ18番館の室内


山手イタリア山庭園は、イタリアで多く見られる庭園様式を模し、水や花壇を幾何学的にデザインした公園です。明治13年(1880年)から明治19年(1886年)までイタリア領事館が置かれていたことから、「イタリア山」と呼ばれています。

庭園から、みなとみらい21地区や関内周辺の市街地を一望することができます。この山手イタリア山庭園に、「ブラフ18番館」と「外交官の家」が建っています。



「ブラフ18番館」は、関東震災後に山手町45番地に建てられた外国人住宅です。

戦後は、カトリック山手教会の司祭館として平成3年まで使用されました。

平成5年に当地に移築復元され、現在は当時使用されていた横浜家具の復元展示をするなど、実際に当時の暮らしを体験することができます。

横浜市認定歴史的建造物に指定されています。


イタリア山庭園



外交官の家



外交官の家


「ブラフ18番館」から一段上に上がったところが「外交官の家」です。

「外交官の家」は、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などをつとめた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43年、東京渋谷の南平台に建てられました。

設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ.M.ガーディナーです。



建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています

平成9年、横浜市が内田定槌氏のお孫さんから、この館の寄贈を受け、山手イタリア山庭園に移築復元して、一般公開しました。そして同年、国の重要文化財に指定されています。


外交官の家



サンルーム


室内は家具や調度類が再現され、当時の外交官の暮らしを体験できるようになっています。

各展示室では、建物の特徴やガーディナーの作品、外交官の暮らし等についての資料を展示しています。

また、付属棟には、喫茶スペースが設けられています。


「外交官の家」から南に進むと丁字路があります。

この左右の通りが山手本通りで、左折して「港の見える丘」方面に向かって歩いていくと、右手に「カトリック山手教会」があります。


美しい尖塔をもつこの教会は、洋館が建ち並び、異国情緒が漂う山手本通りの中でも特に印象的です。


外交官の家の喫茶室



カトリック山手教会


この教会の前身は、文久元年(1862年)にパリ外国宣教会が居留地80番地に建てた横浜天主堂で、日本で初めてのキリスト教会堂です。


同教会は、明治39年(1906年)に2つの塔を持つレンガ造りの聖堂を山手44番館に建設しましたが、関東大震災で崩壊し、昭和8年に再建されたのが現在の聖堂です。



尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った、典型的なゴシック様式の教会建築で、横浜市認定歴史的建造物に指定されております。

カトリック山手教会の北側(イタリア山庭園側)を右に進むと、左手がフェリス女学院です。フェリス女学院を過ぎた、緑多い山の斜面に山手公園があります。


カトリック山手教会



テニス発祥記念館



山手公園 左奥はテニスコート


山手公園は、横浜開港期に山手の居留地に暮らした外国人たちのために造られた公園で、明治3年(1870年)に開園されました。


日本にはまだ「公園」という概念が存在していなかった時代で、「日本最初の西洋式公園」です。



明治9年(1876年)、横浜の山手公園でわが国最初のローンテニスが行われ、明治11年(1878年)にわが国最初のテニスクラブが誕生しました。

「テニス発祥記念館」は、日本初の洋式公園である山手公園と、わが国でのテニス発祥120周年を記念して、平成10年5月に建てられました。

展示室には、ラケット以前の皮手袋やバンブーラケットのほか、最古のテニス道具一式など希少価値の高いものまで展示されています。

テニスラケットの変遷



明治20年代のテニスをする女性


テニス発祥の頃のテニスセット一式



山手68番館


「山手68番館」は、昭和9年に建てられた平屋建てで、下見板張りと開放ベランダをもつバンガロースタイルの外国人向け賃貸住宅の一つです。


現在は、日本で最初にテニスコートが設けられた場所である山手公園内のテニスコートの、クラブハウス及び管理事務所として再生・利用されています。



山手公園から山手本通りに戻り、「港の見える公園」の方向に進むと、左手に横浜山手女子中・高、フェリス女学院中・高などの校舎が続きます。

現在の横浜山手は、人口約4000人、約1900所帯が生活する閑静な住宅街ですが、地区内には明治期に開校を誇るミッションスクールなど、小学校から大学までが多数立地する文教地区でもあるのです。


山手68番館付随のテニスコート



ベーリックホール



ベーリックホール


フェリス女学院高を過ぎると、左手に汐汲坂、代官坂があります。

それぞれの坂を降りると元町に出ることになります。


山手本通りを進むと左手に「ベーリックホール」があります。

ここからの左手一帯が元町公園です。

「ベーリックホール」の先の右手にあるのが、横浜雙葉学園小・中・高です。


深い緑の中にプールや弓道場がある元町公園は、山手本通りに面し、周辺の歴史的建造物とともに、山手を象徴する絶好の景観を創り出しています。

園内にはブラフ80メモリアルテラス、ブラフ溝など横浜の歴史を忍ばせる施設とともに、「ベーリック・ホール」「エリスマン邸」「山手234番館」があります。


ベーリックホール



エリスマン邸

「ベーリック・ホール」は、J.H.モーガンの設計により、昭和5年(1930年)に建てられたイギリス人貿易商・ベーリック氏の邸宅です。

1956年〜2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎としても使用されました。

戦前の山手の個人邸としては最も規模の大きいもので、多彩な装飾など建築学的にも充実した価値ある建物です。

横浜市認定歴史的建造物に指定されています。


平成2年、元町公園に移築された「エリスマン邸」は、大正15年(1926年)にスイス人貿易商エリスマン氏の私邸として建てられました。

木造2階建ての白く美しい洋館は、近代建築の父、アントニン・レーモンドの設計です。

1階各室には、彼の設計した家具が復元展示され、2階は「横浜山手地区」の資料館となっています。

横浜市認定歴史的建造物に指定されています。

木立に囲まれた眺めのよい喫茶室があります。

エリスマン邸



山手234番館

「山手234番館」は、関東大震災直後(昭和初期)に建設された外国人用の共同住宅として、横浜市に現存する数少ない遺構の一つです。

創建当初の施設は、4つの同一形式の住宅が中央の玄関ポーチを挟んで、左右対称に向かい合い、上下に重なる構成になっていました。

また、各住戸は合理的かつコンパクトにまとめられ、往時の「モダン」な生活様式が伺えます。

横浜市認定歴史的建造物に指定されています。



山手89−6番館・えの木てい



山手234番館」に向かって右側に隣接して建っているのが、「山手89−6番館」です。

1927年に建築されたイギリス様式の白亜の洋館です。


現在は200年以上昔のアンティーク家具で飾られたリビングルームが、喫茶店「えの木てい」として使用されています。


山手89−6番館・えの木てい



横浜山手聖公会教会堂


「山手234番館」に向かって左側が「横浜山手聖公会教会堂」です。


横浜山手聖公会は、文久3年(1863年)に横浜に居住する英米人のために設立された、開国3番目のキリスト教会です。

創建当時の教会堂は現在の中華街近くにありましたが、明治34年(1901年)に現在地に赤レンガ造りの聖堂が建てられました。



この聖堂は関東大震災で失われ、現在の建物は、昭和6年(1931年)にアメリカ人建築家のモーガン氏の設計で、大谷石造りの聖堂として再建されたものが母体となっています。


2005年1月に放火により大きな損傷を受けましたが、同年11月に設計当時の形で美しく蘇りました。

横浜市認定歴史的建造物に指定されています。


横浜山手聖公会教会堂



山手資料館



山手資料館

横浜山手聖公会教会堂の隣にあるのが、童話の世界に出てくるような印象の建物が「山手資料館」です。

山手資料館」は、横浜に現存する明治時代の唯一の木造西洋館です。

この建物は、明治42年(1909年)に、横浜・戸部の大工によって中澤邸として本牧に建てられ、昭和4年(1929年)に横浜・諏訪町の園田邸に移された後、 昭和52年(1977年)にレストラン山手十番館の庭内に移築されました。



山手資料館


山手資料館のガス灯



以来、30年余にわたり歴史的景観の保存に寄与するとともに、古き良き横浜の面影を残す山手地区のランドマークとして親しまれています。

また、横浜開港当時の資料等が展示される資料館として公開されています。

山手資料館の庭園には見事なバラが咲いていました。

山手資料館のバラ



グリーンベンチ


グリーンベンチとガス灯

明治初年、米国よりグリーンベンチが横浜共立学園に送られ「伝道のイス」と呼んで親しまれました。

ガス灯は明治5年、横浜・馬車道に初めて点灯されました。庭園内の2基のガス灯は当時のガス灯を復元したものです。



山手十番館



明治100年祭を記念して建てられた「山手十番館」は港ヨコハマを望む外国人墓地前にあるハイカラな明治情緒あふれるレストランです。

緑に囲まれた高台の眺めを背景に本格的なフランス料理を楽しむことができます。

旬の素材を使い、2ヶ月ごとにメニューが変わります。特に体にやさしい低農薬、有機肥料栽培の野菜の料理に定評があります。春、秋のティーガーデン、夏のビアガーデンも好評のようです。


山手十番館



山手十番館ビヤガーデン(まだ時期尚早です)


山手ビアガーデンの由来

醸造技師ウィリアムス・コープランドは、明治初年山手にわが国初めてのビール工場を作りました。

それが明治18年、ジャパン・ブルワリーに発展して、キリンビールの開源となりましたが、その頃彼は工場の隣地にビアガーデンを経営しました。

現在の「ビアホール」の先駆です。

山手ビアガーデンは、そうした歴史をうけて開かれたそうです。


外国人墓地と横浜市街



外国人墓地


山手十番館の道路の反対側(海側)が「外国人墓地」で、その向こうにマリンタワーやみなとみらいのビル群を見ることができます。

外国人墓地には開港後の日本の近代化に貢献した技術者を始め、さまざまな外国人、40カ国以上、4500人が永眠しています。



十字架やマリア像などの墓標が並ぶ外国人墓地の景観は異国情緒溢れるものですが、ここに眠る人々はまさか観光名所として人気を呼ぶようになるとは思ってもいなかっただろうと思います。

訪れた際にはその景観を楽しむだけではなく、やはり「墓地」という意味を考え、祖国を離れて遠い東の国に眠る人々への敬意と弔意を忘れないようにしたいものです。


外国人墓地



山手十番館と外国人墓地

ネットの友人 サチさんに素晴らしいスライドショーを作っていただきました。

次をクリックするとご覧いただけます。

 初夏の横浜(山手町&山下町)



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         風来坊


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