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東海七福神巡り その2 (平成20年1月)


品川橋



品川橋

東海道品川宿は目黒川を挟んで北品川宿と南品川宿に分かれますが、この目黒川に架けられているのが品川橋です。

江戸時代には境と呼ばれていました。また、行合橋、中の橋とも呼ばれていたようです。

最初は木の橋でしたが、その後石橋となり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと時代の移り変わりとともにその姿を変えています。

品川橋の左手にあるのが荏原神社です。


恵比須:荏原神社

荏原神社の創建は和銅2年(709年)で、龍神を祀る元品川宿の総鎮守です。

天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していましたが、明治8年に荏原神社と改称されています。

品川の総鎮守であったため、荏原郡(品川、太田、目黒、世田谷)の名を冠した社号になったとのことです。


鎮守橋と荏原神社



荏原神社

天正5年(1577年)徳川家康より神領5石を寄進されるなど、歴代将軍の庇護を受けています。

東京遷都の際には、明治天皇の内侍所となり、菊花御紋章を賜っており、階下の行幸も4度に上るとのことです。


品川では、北品川の天王社が品川神社、南品川の天王社が荏原神社です。

荏原神社は、元来、目黒川の南側にありましたが、目黒川改修工事により川道が変更され、現在は北側になっています。

6月に行われる天王祭で、荏原神社では御神面神輿海中渡御の神事が行われます。

御神面を神輿につけての海中渡御で、荏原天王祭の「かっぱ祭り」として全国に知られています。


荏原神社



恵比須の像

恵比須は戎・夷とも書きます。

イザナギ・イザナミの2神の第3の子ヒルコ、または大国主命の子の事代主命であるといわれています。

恵比寿信仰の本社は兵庫県西宮市の西宮神社(夷社)とされており、海上・漁業・商売の守り神です。

風折烏帽子をかぶり狩衣をつけ、岩の上にすわり鯛を釣り上げる姿で愛敬のあるエビス顔で親しまれています。


荏原神社から品川橋に戻り、左折すると北品川商店街です。

山手通りと交差する信号を渡ると賑やかな町並みとなります。


約5分で一心寺に到着です。


北品川商店街



一心寺



一心寺本堂

寿老人:一心寺

一心寺は江戸時代末期の安政2年(1855年)に、中僧正引道師により成田山分身の不動明王を本尊として創建されました。

開国日本の幕開けの時代であり、品川の土地に町民と一体となり町内発展と守護のために創建されたとのことです。


昔から延命・商売の守りとして伝えられています。


旧東海道筋に建てられていますが、北品川宿の真ん中に江戸末期に建てられたためか、境内も狭く、注意していないと見過ごしてしまいそうな感じです。

寿老人は本堂内陣に祀られています。


一心寺



一心寺

寿老人は中国の長寿の神です。

寿老神と書く場合もあります。

長頭の老人で杖をたずさえ、杖の頭には巻物をつけ、団扇を持ち、鹿をつれていたといわれています。

鹿は長寿を司る神の使いとされております。

また寿老人は福禄寿と同一の南極寿星の化身であることから寿老人を除いて吉祥天を七福神に入れる場合もあるとのことです。


一心寺の正面の路地を50mほど入ったところが養願寺です。

布袋:養願寺

養願寺は正安元年(1299年)の創建と伝えられており、天台宗明鏡山善光院養願寺と称しています。

御本尊は虚空蔵菩薩です。

福徳知恵の御利益を授かる丑寅年生れの守本尊として信仰を集め、「品川の虚空蔵さま」と呼ばれています。


養願寺



養願寺の手水舎は民家と隣り合わせ

本堂に鎌倉時代制作善光寺式分身阿弥陀如来三尊、江戸時代製作の不動三尊像、布袋尊が安置されています。

養願寺は民家の一角に建っており、境内もありません。


布袋は中国の神です。

中国、西暦900年代はじめの頃実在した契此という禅僧の姿であるともいわれています。弥勒の化身として尊ばれました。


つねに大きな袋を肩にかけて背負い、半裸で大きな腹をだして全国を遊行し、子どもと遊ぶ、楽天的な和尚です。

とくに吉凶を予見して間違うことがなかったと伝えられています。


養願寺から品川神社に向かう路地



品川神社への階段 階段の左手には大黒天がお出迎え 手前は第一京浜国道



品川神社境内


養願寺から正徳寺の塀に沿って狭い路地を約100m進むとサクセス通りです。

ここを右折して約200m進むと第一京浜国道にぶつかります。

信号を渡った山の上に品川神社があります。


大黒天:品川神社

品川神社は、文治3年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神(天比理乃当ス:あめのひりのめのみこと)を現在地にお祀りしたのが始まりです。

徳川家康が関ヶ原合戦出陣の際に、品川神社で戦勝を祈願されたとのことで、以後、徳川歴代将軍の庇護を受けています。


品川神社本殿



稲荷神社へ

当初は品川大明神と称していましたが、現在は品川神社に改められています。

品川神社は南の鎮守・荏原神社に対して、北の鎮守として親しまれています。

6月の天王祭の大神輿は有名だそうですが、2台の山車も登場するとのことです。

境内には、徳川家より寄進された天下ひと嘗めの御神面や葵神輿等があります。


大黒天はインドの神です。
元来、インドにおける大黒は恐ろしい戦闘神でした。

ところが中国の唐の時代には善神としての台所を守る神に変わりました。

それが日本に伝えられ、とくに大黒天は大国主命と同一視され、富や豊作をもたらす神として民衆に浸透していきました。

大きな布の袋を肩にした姿は室町時代に作られたものだそうです。


品川神社入口にある大黒天



富士塚入口 右は浅間神社

富士塚

品川神社の正面入口の急な階段の左手の小山が富士塚で、品川富士とも呼ばれています。

富士塚は富士山を信仰する富士講という団体の人々が、富士山を遥拝する場所として造った人造の山です。


品川神社富士塚は、明治2年(1869年)に、北品川の富士講である丸嘉講(まるかこう)約300名によって造られました。

その後大正11年(1922年)に、第一京浜国道の建設のため西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたものです。


富士塚



登山道入口


登山道 6合目付近



反対側の登山道の表示

標高15mで、本家の富士山同様に○合目の標識があります。

かつては、品川沖の江戸湾から房総半島を一望できたそうです。

現在でも毎年7月1日に、丸嘉講によって「山開き行事」が行われています。



富士塚山頂からの展望 前方は品川の高層ビル群


品川神社から東京マラソンや大学箱根駅伝のコースになっている第一京浜国道を品川方向に約20分進むと品川駅です。

また、品川神社から旧東海道に戻り、一心寺から品川方向に5分ほど進むと、「お休み処」があります。

ここには品川宿に関するパンフレットなどが置かれており、品川宿散策の前に立ち寄ることをお勧めします。


お休み処



日本橋より2里、川崎宿へ2里半

お休み処の前が、品海公園です。

近代的な一里塚には、新橋から2里、川崎宿まで2理半と記されていました。

ここにも「品川宿の松」が植えられていました。

この松は、品海公園の改修工事竣工を記念し、品川宿5本目の「街道松」として、品川宿の方々から寄付していただいたものだそうです。

お休み処から東京方向に約10分進んだところが、品川宿の八ッ山橋側の入口です。

京浜急行の踏切を渡ると、公園のような場所に出合いました。

道路の中央に花畑があり、うす褐色色の部分が車道、歩道は石畳風舗装です。

歩道の傍らに休憩所と品川散策の案内板が立っています。


八ッ山橋側の品川宿入口 手前は京浜急行の踏切



八ッ山橋付近 緑色の橋が旧八ッ山橋

旧八ッ山橋は、明治5年(1872年)に新橋から横浜間の鉄道開通にともない架けられた歴史のある古い橋です。

現在はこの橋の下をJRの4路線の電車が走っています。

右から山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀・総武線で、新幹線は橋の外側のコンクリートの中を走っています。


関連するホームページ

 東海七福神

 東海道品川宿

 全国七福神巡りガイド



八ッ山橋の休憩所と品川散策の案内板



旧八ッ山橋から 前方の一番高い橋が新八ッ山橋
右から山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線

アクセス

品川神社:京浜急行新馬場駅から徒歩5分

磐井神社:京浜急行大森海岸駅から徒歩5分




 東海七福神その1へ



        風来坊


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