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元離宮二条城 (H20.11.2)


二条城本丸



東大手門


今年のNHK大河ドラマ「篤姫」で話題になっている二条城を訪ねました。


二条城は、慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したものです。



豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができます。


徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城です。


東大手門



東大手門


東大手門


二条城見学の入り口になっている門です。

屋根は本瓦葺で入母屋造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られています。

形式は櫓門で石垣と石垣の間に渡櫓を渡して、その下を門とした形式になっています。


番所

東大手門を入った右手にあるのが番所です。

徳川将軍不在の二条城は二条在番と呼ばれる、江戸から派遣された武士によって警備されていました。

毎年2組
(1組50人)が4月に交代して番にあたりました。この番所はそうした詰め所の一つで、正面十間(19.6メートル)、奥行三間(6.06メートル)の細長い建物です。現在、門番所の遺構は少なく、貴重な建物になっています。


番所



唐門


唐門


二の丸御殿への入り口の門です。

切妻造、桧皮葺の四脚門でその前後は唐破風造となっています。

彫刻がふんだんに使われています。



二の丸御殿 車寄せ、遠侍


二の丸御殿

桃山時代の武家風書院造りの代表的なもので、車寄せに続いて遠侍(とおさむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の6棟が東西から南北にかけて雁行に立ち並んでいます。

建物面積は3,300平方メートルあり、部屋数は33で、畳は800畳あまり敷かれています。


遠侍、式台



大広間

車寄せ

唐門を入ると正面に見えるのが、豪華に装飾された車寄せです。

欄間彫刻は表と裏のデザインを変えており、表側には五羽の鸞鳥(らんちょう)・松・ボタン、上部には雲、下部には笹を見ることができます。

屋根は桧皮葺
(ひわだぶき)になっており、床は牛車で中に入れるように四半敷になっています。


遠侍の間

二の丸御殿内で最大の床面積をほこり、約1046.1平方メートルあります。

一の間・二の間・三の間・若松の間・勅使の間等に分かれていて、城へ参上した大名の控えの間です。


勅使の間

勅旨の間は、将軍が朝廷からの使者(勅使)を迎えた対面所です。

上段に勅使が座り、将軍は下段に座っていました。


大広間、黒書院



黒書院

式台の間

参上した大名が老中職とあいさつを交わしたところです。

将軍への献上品はこの部屋で取次がされました。

襖絵は狩野探幽が描いたものといわれています。


大広間一の間・二の間
一の間は広さ48畳、二の間は44畳となっています。

将軍が諸大名と対面した部屋で二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋です。

この部屋で慶応3年(1867年)10月、15代将軍慶喜が諸大名を集め、大政奉還を発表した歴史的な部屋です。

大広間四の間
将軍の上洛のときに武器をおさめた場所と云われています。

襖絵は老松に鷹が描かれており、狩野探幽の作といわれています。


左が蘇鉄の間、右が大広間



二の丸庭園

黒書院
将軍と親藩大名・譜代大名の内輪(うちわ)の対面所です。大広間より若干規模は小さいのですが部屋飾りはより技巧的です。

襖絵は探幽の弟、尚信
の作品です。

白書院

将軍の居間・寝室だったところです。内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なっています。

絵画は狩野興以
または長信の作で、居間にふさわしい水墨山水画となっています。



二の丸庭園


二条城には、3つの庭園があります。

江戸時代に作庭された特別名勝・二の丸庭園、明治時代に作庭された本丸庭園、昭和の作庭の清流園です。

平成17年、アメリカの日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパン」では、全国693箇所の中から、清流園が5位に、二の丸庭園が8位にされました。

翌年は、731箇所の中から、清流園が6位、二の丸庭園が8位にランキングされました。


二の丸庭園



二の丸庭園

二の丸庭園

池を中心とした書院造庭園で、庭には3つの島を置き、4つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池に多くの岩石を配した景観は、変化に富んでいます。

庭園は大広間に西、黒書院の南に位置しており、主として大広間からの景観を想定して造られていますが、寛永3年(1626年)の御水尾天皇行幸のために、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの観賞も配慮して、一部改修を加えられたと考えられています。


作庭年代については、記録や作風から推察して、慶長8年(1603年)の二条城築城の際に、その建築に調和させて作庭されたものですが、寛永3年(1626年)の御水尾天皇の行幸の際に、一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられています。

桃山末期から江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴を徳示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた庭園のひとつに数えられています。


二の丸庭園



本丸御殿



本丸櫓門

本丸御殿

内堀に囲まれた部分16,800平方メートル(約5,200坪)を本丸と呼びます。

創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもっており、内部は狩野派の障壁画で飾られていました。

また、本丸には五層の天守閣がそびえていましたが、寛延3年(1750年)落雷のため焼失、さらに天明8年(1788年)には市中の大火のため殿舎をも焼失してしまいました。



その後永らく本丸御殿の再建はならず、幕末に15代将軍慶喜の住居として、本丸御殿が建てられましたが、明治14年に撤去されました。

現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したものです。


本丸から本丸櫓門を望む



御常御殿


この旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヶ月にわたって住まわれた建物で、嘉永7年(1854年)に内裏が炎上したときにも延焼を免れ、孝明天皇の仮皇居に使用された由緒深い建物です。


本丸と二の丸

本丸は、城の中心となる曲輪で、戦時には司令部が置かれます。

近世の城郭では、城主の居館や政庁のための御殿と天守を備えているのが普通です。


二の丸は、本丸を直接守備する曲輪で、城主の居館が建てられる例も多く、武器・兵糧の倉庫などが建ち並ぶのが普通です。


御常御殿



天守閣跡

本丸庭園

本丸造営当初の庭園は、史料が不足している為、どのようなものであったか分かっておりませんが、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられています。

しかし、天明8年(1788年)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。
庭園も延焼して空地となっていたと思われます。

幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られました。


居室は老朽化のため明治14年(1881年)に撤去、庭園も取り壊されて空地となりましたが、明治26年(1893年)から明治27年(1894年)にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭されました。

現在の本丸庭園は、明治28年(1895年)、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけ大改造の末、明治29年(1896年)に完成した芝庭風築山式庭園です。


天守閣跡から本丸御殿を望む




内堀と天守閣跡

障壁画

二の丸御殿には3000面以上の障壁画が遺され、そのうちの954面が、昭和57年に国の重要文化財(絵画)に指定されました。

二の丸御殿には、車寄せ側から、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院が雁行型に連なっています。

白書院を除くとすべての棟の内部が、金箔をはった画面に鮮やかな岩絵具などで描かれた金碧障壁画で装飾されています。



障壁画は御殿とともに桃山時代の華麗な様式を今に伝える貴重な文化財です。

これらの障壁画は、築城当初(慶長3年(1603年)に描かれたものではなく、寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行幸のために二条城が大改築された際に、幕府御用絵師であった狩野探幽をリーダーとする「狩野派」という絵師集団によって新たに制作されたものです。


内堀と本丸櫓門



桃山門

障壁画の保存について

重要文化財二の丸御殿障壁画は、制作から400年近くを経て絵の具の剥落や褪色、紙の劣化・損傷が進んでいます。

二条城では、現在、障壁画を永く保存するために、古色復元模写と原画の保存修理の二つの事業に取り組んでいます。



東南隅櫓


二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にありましたが、天明8年の大火の際に東北隅・西北隅の両櫓が焼失してしまい、今はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです。


東南隅櫓



二の丸御殿城内


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 元離宮二条城

アクセス

地下鉄東西線二条城前駅下車 徒歩3分


         風来坊


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