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東京龍馬会第41回史跡探訪 (H19.5.22)
『彰義隊の乱をたどる』


三々五々と御徒町駅南口に集まる参加者


東京龍馬会のイベント「史跡探訪」に参加しました。

今回のテーマは『君は時代(とき)の涙を見る』で、上野界隈から谷中まで、彰義隊の乱の跡を中心に辿るというプランでした。


今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

JR御徒町駅南口改札口→松坂屋→黒門口跡(上野恩賜公園入口)→西郷隆盛銅像→彰義隊墓所→上野東照宮→小松宮銅像→大噴水(昼食)→輪王寺表門→因州池田家表門→大雄寺(高橋泥舟墓所)→全生庵(山岡鉄舟墓所)→谷中霊園(徳川慶喜墓所)→日暮里駅(解散)


御徒町駅から松坂屋への路地



松坂屋上野店

集合時刻の5月20日(日)午前10時45分の10分ほど前に、JR御徒町駅に到着し、参加会費を支払うと、名前の書かれている名札と今回の史跡探訪に関する資料が配布されました。

東京龍馬会理事の小林さん、松野さん、森さんによって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から抜粋させていただきました。


東京龍馬会田村会長の挨拶の後、龍馬会理事の先導で出発しました。

約3分で最初のポイント、いとう松坂屋呉服店跡(現在の松阪屋デパート上野店)です。
なぜ松坂屋デパートが本日の史跡探訪に関係あるのかな?

慶応4年(1868年)5月15日の、上野の山にたてこもった幕府側の彰義隊と大村益次郎が指揮する官軍(新政府軍)との戦い、いわゆる上野戦争が行われました。


松坂屋



上野広小路 前方が上野公園 右が松坂屋


この上野戦争において、上野の黒門口から目と鼻の先に松坂屋に、官軍(新政府軍)の本営がおかれ、ここで彰義隊攻略の軍議がおこなわれたとの説があるそうです。

また、松坂屋の店の記録には、翌々日の5月17日に西郷隆盛が店に立ち寄ってしばらく休憩したことが載っているとのことです。


新選組副長の土方歳三は、11歳のときには上野店で丁稚奉公をしています。

17歳のときにも、上野店の支店の木綿問屋亀店(かめだな)で働いていました。

いずれも長続きしなかったようです。

しかし、松坂屋のホームページには、「新選組の徹底した実力主義と鉄の規律は、松坂屋での体験から生まれたとも言われています」ということが紹介されています。


上野恩賜公園入口



桜の時期の上野恩賜公園入口

下谷広小路(上野広小路)

明暦3年(1657年)の明暦の大火は、江戸市街の大半を焼失し、10万人余の死者を出したといわれています。

この大火の後、江戸幕府が火災発生の際に延焼を防ぐために設けた道幅の広い小路が、広小路です。


広小路には縁日が出るなど賑わったようで、上野、浅草、両国が三大広小路として有名です。



慶応4年(1868年)5月15日の上野戦争の時に、官軍(新政府軍)の黒門口(正面攻撃)攻撃部隊だった薩摩軍は、湯島天神経由で下谷広小路(上野広小路)に進出し、そして上野黒門口に向けて進軍したとのことです。


山王台跡からの上野広小路の展望



新緑の上野恩賜公園桜並木

寛永寺

寛永寺は天台宗の関東総本山で、家康・秀忠・家光の政治顧問として活躍した天海僧正によって、寛永2年(1625年)に建立されました。

創建当時は、江戸城の鬼門を守る祈願所でしたが、のちに芝増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺となりました。

歴代将軍のうち6名(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)の墓所があります。



寛永寺は
東の比叡山ということから山号を「東叡山」と称しています。

天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営するということから、上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖に見立てるとともに、また竹生島(ちくぶじま)にならって弁天島を作り、清水寺を模して清水観音堂を建てたといわれています。


春の桜並木(ほぼ同じ場所です)



上野恩賜公園噴水・寛永寺中堂跡


天海僧正のあと、三代目からの山主には必ず皇族(皇子もしくは天皇の養子)を迎えることになりました。

これが輪王寺宮(りんのうじのみや)で、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の3山を統轄しました。


鎌倉幕府は皇子を将軍に迎え、実権は北条氏が執権として握っていましたが、徳川幕府は、輪王寺宮に皇族を迎えることで、公卿との共生をはかりました。


現在、上野公園の噴水のあるところは、竹の台と呼ばれていた処ですが、ここに将軍綱吉によって根本中堂が建てられました。

輪王寺宮が寝泊まりする本坊はその奥の国立博物館のところにありました。

慶応4年(1868年)5月15日の上野戦争で主要な伽藍の殆どが焼失してしまいました。

官軍は寛永寺を旧体制の象徴とみて徹底的に焼き払ったといわれています。


様々な変化を見せる上野恩賜公園噴水



国立博物館・寛永寺本坊跡

明治維新以降、上野の山一帯は焼け野原となり放置されていましたが、明治6年の太政官布達によって、上野恩賜公園は、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。

寛永寺は、かつて慶喜が謹慎していた寛永寺大慈院の跡地に移されています。


黒門跡

黒門は寛永寺の南方に設けられていた門で、城でいうと大手門に位置していました。寛永寺の諸門の中でも最も大事な入口で,寛永2年(1625年)に建てられました。

黒く塗られていたので黒門と呼ばれています。

もともとは山内入口の袴越(現在の清水観音堂あたり)に設置されていました。


黒門跡(蜀山人の碑)



黒門跡

黒門は1868年5月15日の上野戦争で最激戦地となった場所です。

明治6年(1873年)に寛永寺敷地の大半を上野公園にするに当たり、東照宮大鳥居の近くに移転し,明治40年(1908年)には彰義隊を供養した住職仏磨との因縁で,荒川区南千住の円通寺に移築されており、上野の黒門跡地には当時の面影はありません。


山王台跡

上野戦争で黒門口とともに激戦地になった場所です。跡地には上野のシンボル、西郷隆盛の銅像が建てられています。

現在は、西郷隆盛像のある山王台跡へ上野広小路方面から行く場合は急な石段を上ることになりますが、江戸時代はこれが崖のようになっていて男の袴の後ろ姿に似ているというので袴腰と呼ばれていました。


山王台への石段



西郷隆盛像

西郷隆盛像

上野のシンボルの西郷隆盛さんは、筒袖に兵児帯をしめた着流し姿、右手に犬を引いています。

この銅像の作者は、高村光太郎の父、高村光雲です。


明治10年(1877年)の西南戦争で朝敵となった西郷隆盛ですが、明治22年(1889年)2月の大日本帝国憲法発布の大赦で正三位を追贈されて、逆賊の汚名から名誉を回復しました。


明治31年(1898年)12月18日に、上野公園で除幕式が行われました。

「除幕式」という言葉が使われたのはこれが最初だそうです。


除幕式に参列した夫人のイトさんは「うちの人はこんなみすぼらしい格好をしてなかった」と嘆き、2度と上京はしなかったそうです。

ちなみに郷里鹿児島の円山公園の西郷像は軍服姿です。


西郷隆盛像



彰義隊士の墓

彰義隊士の墓

西郷隆盛の銅像から30mほど離れた、木陰の中に彰義隊士の墓があります。

5月15日の上野戦争で戦死した彰義隊の遺体は、見せしめのために上野山内に放置されていましたが、南千住円通寺の住職仏磨や寛永寺御用商人三河屋幸三郎などによって当地で火葬されました。


生き残った小川椙太ら彰義隊士は、明治7年(1874年)にようやく政府の許可を得て、激戦後であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立しましたが、思うように募金が集まらず、その墓は取り壊されたようです。

紆余曲折を経て明治14年(1881年)に、彰義隊の隊士を火葬にした場所に、山岡鉄舟筆による「戦死之墓」が建てられました。


彰義隊士の墓



彰義隊の碑

墓碑の台座上に小さな墓碑が乗せられていますが、これは「戦死之墓」建立時に地中から発掘されたもので、明治2年(1869年)に上野山内の護国院と寒松院関係者により建立されたといわれています。

当墓碑は、建立後120年余りにわたり、小川一族によって守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として東京都の管理下に置かれています。



彰義隊

慶応4年(1968年)正月、15代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻りました。

2月には有栖川宮親王を総督に戴く官軍(新政府軍)が江戸を目指します。


江戸に帰った慶喜は、進軍してくる官軍に対し徹底して恭順を示すため、2月12日に上野の寛永寺大慈院(現在の寛永寺)に入り謹慎します。


清水観音堂



清水観音堂

官軍や公家の間では、徳川家の処分が議論されますが、慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶喜の助命嘆願のために同志を募りました。

そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満分子、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」が結成されます。


4月11日に西郷隆盛と勝海舟の歴史的な手打ちによって、江戸城が無血開城され、官軍が江戸入りします。

徳川慶喜は江戸城が政府軍に明け渡された4月11日に、寛永寺を出て水戸に退去しますが、寛永寺の彰義隊は慶喜退去後も、「輪王寺宮警護と徳川霊廟警護」を名目に上野山内に残留します。


上野東照宮参道



上野東照宮


このまま彰義隊を野放しにするわけにいかないと判断した京都の新政府は、彰義隊を討伐するために、大村益次郎を江戸に向かわせます。


大村益次郎はこの討伐作戦を単なる「彰義隊の討伐」に終わらせるのではなく、江戸の市民に「徳川の世が終わった」ということを決定的に印象づけるための戦略的なものとして計画を立案します。


作戦計画ができあがると、作戦遂行前日の5月14日に江戸市中に「翌日上野寛永寺の彰義隊を討伐する」という布告を出します。

この布告により彰義隊の中には隊を脱走するものが続出し、最盛期には3000人といわれていた彰義隊も、上野戦争当日は1000名程度しか残っていなかったといわれています。

5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させます。


上野東照宮



上野東照宮境内

清水観音堂(重要文化財)

寛永寺を建立した天海僧正が、京都の清水寺を模して寛永8年(1631年)に建立した建物で、清水寺と同じ「懸造り」建築になっています。

本尊の千手観音座像は京都清水寺より移されたものです。


上野東照宮(重要文化財)

上野東照宮は、寛永4年(1627年)に藤堂高虎が上野の屋敷内に創建した神社です。

しかし3代将軍家光は,高虎の建てた東照宮が気に入らず,社殿の全面造り替えを命じ,慶安4年(1651年)に現在の東照宮が完成しました。

唐門,透塀,拝殿,幣殿,本殿からなり、日光東照宮と同じ、本殿との間を石の間でつなぐ「権現造り」が用いられています。


旧寛永寺五重塔



旧寛永寺五重塔(ボタン苑から)

旧寛永寺五重塔(重要文化財)

旧寛永寺五重塔は、寛永16年(1639年)に、下総国佐倉城主の土井利勝が東照宮造営にあたり寄進したものです。

したがって、もともとは上野東照宮の五重塔でしたが、明治になって寛永寺の所属となり、昭和33年に寛永寺から東京都に寄付されました。

このため、現在は上野動物園の敷地内にあります。


小松宮彰仁親王像

小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8王子として生まれ、安政5年(1858年)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867年)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称しました。

慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いには、征東大将軍として参戦しています。

ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍しました。


小松宮彰仁親王像



小松宮彰仁親王像付近の桜並木

明治15年(1882年)に、東伏見宮を小松宮に改称、近衛師団長、参謀総長を歴任し陸軍元帥になります。

銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行されました。

上野公園に小松宮親王の銅像を建てたのは、上野戦争で彰義隊の盟主としてかつがれていた輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察されています。


旧寛永寺本坊表門

上野公園の噴水を過ぎ、東京国立博物館入口から右手に200mほど進んだところに、旧寛永寺表門があります。

現在の東京国立博物館の敷地内に本坊があり、「東叡山の山主である」輪王子宮法親王が居住していましたが、上野戦争で本坊は焼失し、表門のみが戦火を免れました。


旧寛永寺表門



旧寛永寺表門


明治11年、帝国博物館(現在の東京国立博物館)が開館すると,正門として使われましたが、関東大震災後,博物館改築に伴い、現在地に移建されました。


旧因州池田屋敷表門(重要文化財)

国立博物館から左手に100mほどのところに、旧因州池田屋敷表門があります。

因州32万5千石、旧因幡鳥取藩池田家の表門で、江戸時代は八代洲河岸(現在の日比谷堀前)に建てられていました。

明治になり東宮御所正門として移築され、昭和29年(1954年)に東京国立博物館の脇に移築されました。


旧因州池田屋敷表門



旧因州池田屋敷表門

屋根は入母屋造り、門の左右に唐破風の番所を備えており、大名屋敷門としては最も格式が高い。鳥取藩の池田光仲の流は、家康の血が入っており三葉葵の紋の使用を許されています。

東大赤門(加賀前田家屋敷門)に対し、「上野の黒門」と呼ばれています。


大雄寺(高橋泥舟墓所)

旧因習池田屋敷表門から約15分のところに大雄寺(高橋泥舟墓所)があります。

高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家です。
天保6年(1835年)旗本・山岡正業の次男として生まれ、後に高橋家の養子になります。

剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となりました。

吉田屋本店で高橋泥舟の説明を聞く参加者



民家に囲まれた大雄寺入口


佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862年)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月に京都に送ります。

泥舟は浪士取扱となりましたが、浪士が尊攘派志士と提携したため、任を解かれ、同年12月に師範役に復職します。




鳥羽伏見の戦いの後、主戦論も多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、15代将軍慶喜が恭順の意を示して寛永寺に蟄居した折りや、水戸に転居したときも遊撃隊を率いて警護に当たります。


高橋泥舟の墓



大雄寺のクスノキ

江戸に向かって進軍してくる東征軍への使者として、勝海舟は最初に高橋泥舟を選びますが、泥舟は慶喜警護を優先して代わりに妹婿の山岡鉄舟を推薦、鉄舟が見事に大任を果たすこととなります。

墓所のある大雄寺は上野戦争当時、激戦地となった谷中門があった辺りになります。

大雄寺の大樹

高橋泥舟の墓の左側に大きな木があります。「東京都保存樹」と書いた看板があり、樹齢200年の「くすのき」です。見上げるような大木が四方八方に枝を伸ばし雄大な姿を誇っていました。


全生庵(山岡鉄舟墓所)

大雄寺から約15分のところに全生庵があります。

全生庵は、明治16年(1883年)山岡鉄舟居士が幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために、建立しました。

全生庵という寺名は、明治7年に居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の「全生庵」という額を貰い、これを書斎にかけていたことによるそうです。


全生庵



全生庵

山岡鉄舟は、明治維新のハイライトといわれる江戸無血開城の功労者です。

山岡鉄舟は天保6年(1836年)に幕臣小野朝右衛門の五男として生まれ、寛永5年(1852年)に槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣ぎます。

幕末の動乱の中で、東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させます。


明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任します。

公務の傍ら剣術道場を開き、明治13年(1880年)には無刀流を創始しております。

全生庵には山岡鉄舟の墓所がありますが、鉄舟居士との因縁で、落語家の三遊亭円朝の墓所もあります。


全生庵



山岡鉄舟居士の墓

今回の史跡探訪においては、全生庵で住職から山岡鉄舟居士に関する貴重な講話を聞くことができましたし、山岡鉄舟居士の書も拝見させていただきました。

全生庵の由来については、次のサイトで住職のお話を直接聞くことができます。

 全生庵


谷中霊園(徳川慶喜墓所)

全生庵から元来た道を戻り、約10分で谷中霊園です。

江戸幕府15代将軍となった徳川慶喜は、慶応3年(1867年)10月に大政奉還の上奏文を提出し、徳川家を盟主とした新たな政治体制を築こうとしますが、武力倒幕路線を望む薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らの画策により、12月には新政府による王政復古が宣言され、慶喜には辞官納地が命じられます。


徳川慶喜の墓所



左側が慶喜の墓

そして、慶応4年(1868年)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗退すると、江戸城に逃げて帰ってしまいます。

その後の慶喜は新政府に対してひたすら恭順を表すこととなり、2月12日に江戸城を出て上野寛永寺で謹慎に入り、4月には水戸に、7月には駿府に退去して謹慎し、明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結して、謹慎から解除されます。



朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵にも列してくれた明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自らの葬儀を仏式ではなく神式で行うよう遺言しました。

光圀や斉昭などの勤王家を輩出した徳川家の伝統に従ったとも言われています。


このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である僧正寺徳川墓地でも寛永寺徳川墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられました。


徳川慶喜の墓



谷中霊園の桜並木

徳川慶喜の墓所から谷中霊園の桜並木を抜けて約15分で、JR日暮里駅に到着です。

史跡探訪はここで解散になりますが、引き続き近くの居酒屋で有志による懇親会が行われました。

やさしく、進取の気鋭をもった幕末の志士“坂本龍馬”が好きな人、幕末に興味がある人が集まって、『龍馬を縁に出会いを楽しむ』」という東京龍馬会のモットーが生かされた、楽しい懇親会でした。


東京龍馬会では年2回「史跡探訪」のイベントが開催されています。

この史跡探訪は、東京龍馬会会員でなくても参加できます。

次のサイトのイベントのページからメールで参加申し込みができます。

 東京龍馬会

          風来坊


JR日暮里駅


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