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京都御所一般公開 その1 (H19.10.31)


京都御所 承明門と紫宸殿



京都御苑

京都御所は、桓武天皇によって京都に都が遷された延暦13年(794年)に造営された大内裏(宮城)で、現在の京都御所から2Kmほど西にありました。

しかし、平安京の内裏は天徳4年(960年)に焼失したのを始めとして、度重なる内裏の焼失により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏が置かれるようになりました。


安貞元年(1227年)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。

現在の京都御所は、里内裏のひとつであった東洞院土御門殿に由来するもので、元弘元年(1331年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。

明徳3年(1392年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの500年もの間天皇の住まいでした。


京都御苑



建礼門と築地塀

京都御苑は、京都御所、仙洞御所を囲む面積約63haの公園で、いつでも自由にはいることができます。

平安京の大内裏の規模には及ばないものの、北を今出川通、南を丸太町通、東を寺町通、西を烏丸通に囲まれ、東西約700
m、南北約1,300mの広大な敷地は、江戸時代には二百もの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいた場所でした。


明治になって都が東京に移った後、これらの邸宅が取り除かれて、皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園として開放されたものです。

外周は石垣と土塁で囲まれ、蛤御門、堺町御門、今出川御門、清和院御門などの9つの門と、切通しと呼ばれる6つの通路があります。


苑内には玉砂利を敷きつめた幅広の道が縦横に走り、松樹や花桃、梅、桜などをあしらった簡素な景観が清澄な雰囲気を漂わせています。


建礼門



建礼門 その後方は承明門、紫宸殿



建礼門 内部から

また、檜皮葺造りの建礼門や建春門、宜秋門などの独特な様式をもつ門や、築地塀と御溝に囲まれた10余棟の宮殿建築群からなる京都御所は、明治に至るまで皇居の地として数々の国家的行事が執り行われた、歴史と由緒に富む象徴的な存在です。

現在の建物の殆どは、安政2年(1855年)に再建されたものです。

今年も京都御所の秋の一般公開が、10月31日から11月4日の間行われました。


建礼門

建礼門は京都御所の正門で南面中央にあります。

檜皮葺き、切妻屋根に角柱を四脚門で、内部にある承明門と向き合っています。

南御門ともいい、現在は外国元首などの国賓来訪を始めとして、天皇が臨幸される時に開かれますが、近世においては、御即位の大礼などの儀式の時のみに開かれたとのことです。


西側築地塀



築地塀

築地塀

築地塀は淡い朽葉色に五筋の白い横線を等間隔に配しています。

東西249m、南北451mあります。

内側の木造宮殿群と調和した、厳かで清楚な雰囲気をたたえています。


京都御所の西側築地には南から宜秋門、清所門、皇后宮門があります。

宜秋門は、宮・摂家その他の公卿が参内するときに用いられたことから「公卿門」とも、また長い間の習慣の名残から「唐御門」とも呼ばれていますが、檜皮葺、切妻屋根に四脚門で、唐門の様式は備えていません。


宜秋門は屋根の葺き替え工事中でした。

春秋の一般公開では、宜秋門が入口に、清所門が出口となります。


御車寄



御車寄

御車寄

宜秋門を入るとすぐに「御車寄(おくるまよせ)」があります。

御車寄は昇殿を許された親王、摂家、堂上、六位の蔵人などが、正式な参内の場合にのみに昇降するところで、檜皮葺で優雅なそりをもつ屋根をいただいております。


虎の間は、「公卿の間」ともいい、儀式の折の公卿の控えの間で、3室の中で最も格がたかく、清涼殿の近くに位置しています。

虎図は天明の火災で焼失する以前にあったものを、安政の再建時に再び描いたものといわれています。


諸大夫の間



鶴の間


虎の間



和舞

鶴の間は別名「殿上人の間」ともいわれ、諸侯、所司代などの控えの間です。

また、桜の間はそれ以外の者の控えの間として用いられた、狭義の「諸大夫の間」です。


この建物は建具にも蔀(しとみ)を用いず、書院造りに見られる舞良戸(まいらど)を用いるなど、近世の様式を伝えています。


和舞

「和舞」は、大嘗祭で演じられた歌舞で、大和地方(現在の奈良県)の風俗舞が元になっています。

陪従(楽人)による楽器(管楽器、弦楽器)の演奏と歌に合わせて、4人の舞人が舞います。

今日でも、春日大社では、春日祭の折に奏されています。

ここでは、舞人の人形4体、陪従の人形2体で和舞の様子を表しています。


諸大夫の間



新御車寄



新御車寄

新御車寄

「新御車寄(しんみくるまよせ)」は1915年の大正天皇の即位に際し、建てられたもので、天皇、皇后のみが昇降される、大正以後の天皇、皇后両陛下の玄関です。

ここにはもともと新嘗祭が行われる神嘉殿がありましたが、現在は取り払われ橿原神宮の拝殿として移築されています。


五節舞

「五節舞」は、宮中では、毎年の新嘗祭で演じられましたが、今日では、大嘗祭(即位後最初の新嘗祭)の折に演じられています。

この舞は、天武天皇が吉野宮で琴を弾いた時に、天女が舞い降り、その袖を5回翻したという故事に因んでいます。

楽人による楽器の演奏と歌にあわせて、5人または4人の舞姫が舞います。ここでは、人形2体で5節舞の様子を表しています。


五節舞



丹塗の回廊と承明門

紫宸殿から延びた丹塗の回廊の南正面に「承明門」、東側に「日華門」、西側に「月華門」があります。

承明門は瓦葺き、切妻屋根で、中央部は天皇行幸や上皇後譲位後の出入りに用いられています。

また、節会、御即位、御元服、立后、立太子などの厳儀の際にも開かれています。



月華門と紫宸殿


月華門と日華門


日華門、月華門は東西に相対して位置し、ともに瓦葺き、化粧屋根裏、丹塗りの八脚門です。

これらの諸門は築地の諸門とは異なり、いずれも瓦葺きに丹塗りの円柱を用いた唐様の門で、平安の古制を伝えています。


承明門と紫宸殿



承明門


承明門



建春門

建春門

東側の築地には切妻で平入りの前後の向唐破風(むかいからはふ)の屋根をいただく四脚の建春門があります。

現在では皇后の出入りに用いる門とされています。


春興殿

紫宸殿の東に建っているのが春興殿です。

内侍所、賢所ともいい、皇位継承の印である三種の神器の一つである、御鏡(八咫鏡:やたのかがみ)を安置するところでした。

しかし、東京に都が遷されるにともなって内侍所も遷され、現在御鏡は東京の賢所に安置されており、即位の大礼を行う際に、ここ春興殿に移御、奉安する慣わしとなっています。


春興殿



紫宸殿 「高御座」と「御帳台」



紫宸殿と左近の桜

紫宸殿

「紫宸殿」は御即位礼、節会、朝賀などの儀式が執り行われた、御所の建物のなかで最も格の高い正殿で、「南殿(なでん)」「前殿」とも呼ばれる京都御所の象徴的な存在です。

大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われました。


建物は正面の柱間が九間(約33m)、側面が四間(約23m)の入母屋檜皮葺き、総檜造りの高床式木造寝殿造りです。

床はすべて拭板敷、天井は二重紅梁の化粧屋根裏で天井板はなく、中央に母屋、四方に庇の間を設け、四周に高欄を付けた簀子縁を巡らせた古制に則った宮殿建築の様式を伝えています。

簀子縁の中央に18段の階段を有し、その正面壁面に幕末の書博士岡本保孝の手になる「紫宸殿」の扁額が掛かっています。


紫宸殿と右近の橘



紫宸殿

紫宸殿母屋の中央に天皇の御座である「高御座(たかみくら)」、そのやや右後方に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。

高御座は御即位、朝賀、賓客引見などの大礼の際に用いられましたが、現在は御即位の大礼の際だけに用いられます。


現在の高御座と御帳台は、大正天皇の即位礼に際し、古制に則って造られたものです。

今上階下の即位礼の際には、東京の宮殿に運ばれて使用されました。



紫宸殿


紫宸殿


階段脇には、東に「左近の桜」、西に「右近の橘」が配され、前面には白砂の平庭(南庭)が広がっています。

儀式に際しては建物と同様に庭も重要な役割を果たし、建物と平庭は一体のものとして機能しています。

紫宸殿の北廂を「御後(ごご)」といい、賢聖障子の背面には極彩色の花鳥画が描かれています。


紫宸殿の花鳥画



紫宸殿から清涼殿への通路



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        風来坊


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