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京都の桜06 その2 知恩院・南禅寺・琵琶湖疎水 (H18.4.9)

知恩院


知恩院三門



知恩院三門


知恩院は東山三十六峰のひとつである華頂山の麓に、大小106棟に及ぶ伽藍がひろがる、浄土宗の総本山です。

本尊は阿弥陀如来で、開基(創立者)は法然です。


浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降だそうです。

その壮大な佇まいは、厳粛な中にもおおらかな雰囲気をたたえています。



円山公園から北方向(平安神宮・南禅寺方向)に出ると、すぐ右手に大きな知恩院の三門が見えてきます。

この三門は、元和7年(1621年)、徳川二代将軍秀忠公によって建立されたもので、高さ24m、横幅50m、使用されている屋根瓦は約7万枚だそうです。

その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大の楼門です。


遠くからでないとカメラに収まらない大きさです。


知恩院三門



知恩院境内


三門をくぐり、急な石段の男坂を登りきると、左手に巨大な屋根を持つ雄大な建築物が見えます。

俗に「大殿(だいでん)」と称されているこの建物は、元祖法然上人の御影(みえい)をまつることから、「御影堂(みえいどう)」と呼ばれており、総本山知恩院の中心をなすお堂です。



知恩院境内・三門付近


知恩院境内・三門付近



寛永16年(1639年)、徳川三代将軍家光公によって再建されたもので、建築様式は唐様を取り入れた和様です。

大きさは、奥行35m、間口45mで、周囲に幅3mの大外縁がめぐらされているというスケールの大きな建物です。



知恩院御影堂



知恩院阿弥陀堂


御影堂の西側に建つ阿弥陀堂は、明治年間に建てられた唯一の建造物です。


その昔、阿弥陀堂は、知恩院第二世勢観房源智上人によって勢至堂の前に創建されました。

その後、宝永7年(1710年)に現在の位置に移築されましたが、明治にはいって荒廃が進み、いったん取り壊され、明治43年(1910年)に再建されたのが現在の阿弥陀堂です。



現在、元祖法然上人800年大遠忌にあたっての修理工事が行われており、境内の一部は立ち入り禁止になっていました。

「御影堂(みえいどう)」と「阿弥陀堂」を結ぶ線から北側部分は散策できませんでした。



知恩院境内・唐門付近


南禅寺


南禅寺境内



南禅寺三門


知恩院から青蓮院の横を通り、真っ直ぐ北方向に進むと約20分で平安神宮です。

平安神宮については別途レポートします。

平安神宮から知恩院の方向に5分程度戻り、京都国立近代美術館傍の疎水に沿って、南禅寺方向の案内にしたがって15分程度進むと、南禅寺に到着します。



南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で、正式名称は瑞龍山大平興国南禅禅寺です。


鎌倉時代の正応4年(1291年)に、亀山上皇が離宮を施捨して禅寺とし、大明国師を開山にしたのが始まりです。

歴史上の特色としては、五山制度の中で五山を超える「五山之上」という禅宗寺院最高の寺格を賜ったこと、当時最も傑出した禅僧が歴代住持として住山したこと、その結果として五山文学の中心地として栄えたことがあげられます。


南禅寺三門



南禅寺法堂付近


南禅寺の三門は、石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」と見得を切る話の舞台になっている場所として有名です。


三門は、別名「天下竜門」と号し、2層からなる高さ22mの壮大な楼門で、上層の楼は五鳳楼と呼ばれており、日本三大門の一つに数えられています。



現在の三門は伊勢伊賀の領主、藤堂高虎が寛永5年(1628年)に、大阪夏の陣に戦没した藩士の霊を弔うために建立寄進したものです。

楼上には大仏師左京の作による釈迦像、十六羅漢像が安置されております。

拝観料500円を支払って楼上に上ることができますが、今回は時間がないため、石川五右衛門の気分を味わうことはできませんでした。


南禅寺本坊付近


琵琶湖疎水・インクライン


インクラインの名残を伝える線路



インクラインの桜


南禅寺から金地院、何有荘の傍を通って地下鉄東西線の「蹴上駅」の方向に5分ほど進むと、インクライン(傾斜鉄道)です。


京都と琵琶湖を結ぶ水路「琵琶湖疎水」は、水道用水の確保と、船での交通の充実を図るために明治時代に建設されました。

インクライン(傾斜鉄道)は、船が上がれない急な坂を、貨車を使って引っ張り上げるための線路の跡です。


九条山より蹴上にかけては、582mに36mの標高差があり、勾配が15分の1と急であるため、インクライン(傾斜鉄道)の両端に船溜まりを設置して、ここで荷物ごと三十石船をそのまま台車に載せて上下させ方式が採用されました。

このインクラインの建設によって琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれることとなり、北陸や近江、あるいは大阪から、人や物資の往来で大層にぎわいました。

琵琶湖疎水は、日本で初めてインクライン方式を採用した疎水です。


インクラインの桜



琵琶湖疎水・蹴上発電所付近?


インクラインが盛んに利用されたのは昭和初期までで、交通機関の発達につれて次第に利用されなくなりましたが、今日の京都を築いた貴重な産業技術遺産(土木遺産)として保存されています。


今は使われなくなった線路と記念に残された台車と船が、明治時代に京都を水上輸送都市にしようとした技術者達の夢の名残を、ひっそりと伝えています。



京都市美術館付近の琵琶湖疎水



琵琶湖疎水の水は発電にも利用され、インクラインの近くには日本で最初の水力発電所が建設された。特徴的な赤レンガ造りの建物は今も残されています。


蹴上発電所で発電された電力は日本最初の路面電車開業へとつながり、各家に電灯が灯ることになります。


琵琶湖疎水と国立近代美術館



京都市美術館付近の琵琶湖疎水

京都を水上輸送都市にするという壮大な計画は、以後に発展した電車や自動車の普及で夢のままに終わることになりました。

それでも琵琶湖疎水は、今なお京都の人々に豊かな水の恵みをもたらし続けています。


明治の技術者達が、今の車社会を目にしたら何を思うのでしょうか?

変わりゆく町の風景の中で、桜並木だけは変わることのない命の営みを咲かせており、桜の名所となっています。



京都の桜06


その1 祇園白川 円山公園

その2 知恩院、南禅寺、琵琶湖疎水

その3 平安神宮

その4 京都御苑





         風来坊


京都市美術館前の広場


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